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西村賢太「写真」
2023年8月の読書。
2022年6月の『本の雑誌』西村賢太追悼号で本作が単行本に入ってないと知って、そうだこれ読んだわ、お風呂上りの頭にタオル巻いて白くま食べてる秋ちゃん出てきたわ、と思い出した(これ、実は私ではないかと思っているのだが)。
文芸誌で読んでそう面白いとも思えず、ずっと忘れていたので、まあ、そうだろうな、と思った。
それで、どんなだったか、も一度読んだ。
今回はさらに1年経ち、2度目の復読である。
改めて『文学界』2016年8月号の表紙を眺めてみると、「写真」は異色短編特集「怪」という括りで載せられていた。
石原慎太郎の作品が同時掲載されていたことも、7年越しに知る。
けんけんのことだ、表紙に二人の名前が並んで載っていることを、さぞかし喜んだに違いない。
『痴者の食卓』(2015)を読んだ石原慎太郎が、けんけんのガラケーに「会話を書くのが巧いね」と留守電を残し、けんけんがそれを後生大事に繰り返し聞き、周りの者に聞かせもしていたというのは、これも『本の雑誌』追悼号で読んだ。
私も聞かされた。
石原の「いつ死なせますか」はタイトルとは裏腹に「怪」の括りではなく独立したもので、当号のメイン作の一つとして印字されている。
そのため「怪」に寄せた6人の作家名は、石原のよりフォントが小さいが、なぜかこの6作家のうちにもフォントサイズの大小があり、西村賢太の名は、その大きいほうである。
敬愛する石原慎太郎を控えめに引き立たせつつ、同時に他の作家よりちょっとだけフォントが大きい…。
晩酌しながら「うむ」と頷くけんけんが脳裏に浮かんだ。この表紙を嬉しく眺めつつ、件の留守電を聞き返しながら「石原さんも見てっかなァ」、などと、ニコニコと、杯を重ねたのではなかろうか。
さて、西村が没後弟子を名乗った藤澤清造の墓の隣に自らの生前墓を建ててしまった、というのはファンにはお馴染みだが、タイトルの「写真」は、この2001年か2002年の工事の、進捗を写したスナップを指す。
作中ではそれを、風呂上りの頭にタオルを巻いた同棲相手と一緒に眺める。
どんな「写真」だったかは“異色短編特集”中の一話とあれば推して知るべしだが、怖かったのは工事過程の描写だ。
7年前の初読時、昨年の復読時とは違って引き込まれてしまった。
この工事は、単に「清造の墓の隣に西村の生前墓を建てた」ものではない。隣に十分なスペースなど、なかったのだ。
清造の墓を墓標と土台に分解して土台のほうは撤去してしまい、墓標は西村の墓標と同じ一枚の石の台座に間を詰めて載せ、それを新たにこしらえた横長の土台に乗せて、元のスペースに収めねばならなかったのだ。
作中には「これは、清造の墓所を、一度更地にしているところのスナップである。崩れかけた土台を撤去し、一部にまだ瓦礫の残ったその端に、土台から外した墓標がどこか寒々とした風情で横たわっている」と描かれる。
『どうで死ぬ身の一踊り』8章には、この工事の発端が「清造の墓の台座が老朽化して崩れかけていたので、その改修を申し出た際に、事のついでみたいにして」「かねてからの念願」だった「自分の墓を建てることにした」とはあるが、過程の詳細はなかった。
想像だが、更地に横たわる師匠の墓標をフィジカルに目の当たりにすれば、他人の墓に手を突っ込むような、冒涜だと曲解もされかねないことの畏れ多さに打たれ、一層強く没後弟子としての覚悟を決めたのではないか。
こんなことまでしてしまっては、もう、逃げられない。
大体『どうで死ぬ身の一踊り』にはこの際の費用が80万円弱だったとある。真偽のほどはさておき、吝嗇には吐き気のする金額だ。
誰か真似のできる人、いますか?
話は変わって、私の好きな西村賢太本人の写真がある。
西村の没後、初めて見たものだ。
「写真」から7年ほどが経ち、「小銭を数える」(2008)が二度目の芥川賞候補となって私設「藤澤清造資料館」たる自宅リビングで取材を受けた時のもので、撮影した元新聞記者の方が、追悼としてnoteにあげていた(※)。
「よかったねえ」「嬉しかったねえ」と撫でてやりたくなるような顔をして(実際には受賞はならなかったのだが)、後ろにはしっかりと『どうで死ぬ身の一踊り』や『墓前生活』でお馴染み、清造の木の墓標を入れてもらっている。背後に従えている、というより、一緒に写真に入ってもらっている、という感じ。
此度の「写真」復読で、改めて西村賢太のリビングルームと若い頃が見てみたくなった私は、この写真を見に行った。
背後の木の墓標横に、飾ってあるのか供えてあるのか、額に入れた墓の写真が添えてある。
お、どれどれ、と覗き込んだ瞬間、頭の隅にあった、大方「写真」で描かれた工事後の二つ並んだ墓でも飾っているんだろうと安っぽくタカを括っていたものが見事に梯子を外されて、自分のペラッペラな卑しさを見ることになった。
けんけんはそんな人じゃなかったね、ごめんなさい。
中なる写真が、木の墓標か、或いは平成2年(1990)に建て替えられた石の墓標かは判らない。しかし、少なくとも彼が改修した後の写真ではない。
この選択が、西村賢太なのだ。
彼は、自分の墓を建てたことを手柄だなどとは微塵も思っていない!いわんや売名をや!である。そんなものは1ミリたりとも、毫もない。
木の墓標であれば、寡婦でもあった清造の嫂が地道に金を貯めて死後21年も経ってやっと建ててやれたものなのだ、余程尊いわけだし、平成2年に建て替えられた石の墓標のほうであるならば、平成9年3月、彼が初めて菩提寺に辿り着き、没後弟子たることを誓ったとき眼前に見た景色なのだ。
ともすれば生前墓建立が代表的エピソードとして語られがちな「没後弟子」だが、木の墓標に添えて額に入れていた写真を見るに、西村にとっては従来の墓のほうにこそ、価値も意味もあったのではなかろうかという気がするし、何よりただ清造への清らかな優しさだけが伝わってくる。
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