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使い捨ての世の中に飽きている

おはようございます、音楽家の河野一之です。

今から書くのはバズったことも流行に乗ったこともないただの音楽家が書くあるnoteです。

使い捨ての世の中に飽きている

マリトッツォというイタリアのお菓子が流行って徐々にまた姿を消しています。一昔前はタピオカ、音楽もカンナムスタイル?とかはどこにいったのでしょうか?

本当に良いものを残すためにどんどん様々なものを世に出し、人々の関心のもと残るか消えていくかを競わせることは決して悪いことだとは思いません。

スマフォだってそれまでの覇者であったガラケーを追い退けて流行り、今では誰でも持っているものになりましたし、CDで音楽を買っていたものがオンラインでデータ販売に置き換わっています。

でもちょっとここ数年の「バズらせよう」「流行らせよう」「流行を!」というメディアの加熱に疲れている自分がいます。

承認欲求の泥沼化

バズらせるとフォロワーが増えたり、もっといけばインフルエンサーとしてより多くの人に何か情報を届けられる人として企業から広告費=つまりお金をもらえるようになるそうです。

確かに、僕もこのツイートがとても多くの方に見られた時にフォロワーが増えました。でも別にどうでもいいことです。

でももし承認欲求、誰かに認められたい、知ってもらいたいという欲求が強い人たち(僕たち音楽家ももちろんそれはありますが )がいて、もし道を踏み外してしまうとそこには

バズらせるための、承認欲求を満たすための

コンテンツが氾濫することになります。今がその過度紀にきているのではないかと思うのです。

人やコンテンツは使い捨てではない

一発屋芸人とか、恵方巻きとかもそうですが、人や物事、コンテンツというのは使い捨てにされるべきではないと思います。

そもそもこの地球上に使い捨てのものはなく、それぞれ全て循環してきています。人間だけがモノゴトに限らず挙げ句の果てには”人”自身でさえ使い捨てのような扱いをするようになってしまいました。

極論、数十年前のように人口がものすごい勢いで増え、技術も今ほど高くない時代、(本当はいないけど)誰かの代わりになるような人がいっぱいいる時代はもしかしたら使い捨てのように人材を使うこともできたかもしれませんが、今は少子高齢化、日本の人口は本当にヤバい勢いで減っています。

資源だってそもそもあまり無いこの国では外国からモノを輸入し、使い捨て、余らせ捨てています。

経済、情報、技術、様々なことが高度に成長したがゆえに、僕たちは何か大切なモノをガッツリ忘れているのでは無いかと自戒も込めて思うのです。

まとめ

確かにメリットはありますし、競合させることでより良いものが生まれるのは確かなのですが、バズりや流行に諸行無常感を感じます。

この気持ちがどんなものなのか、引き続き内観を続けていきたいと思います。

Thank you

Kazz


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