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見えない罫線の外側へ


無地のノートが好きだ。

大学では罫線の入ったルーズリーフや方眼紙を使っているが、考えたことを記録しておく私用のノートは迷わず無地のものを選んだ。どこに出かけるときでも、ほぼいつもカバンの中に入れて持ち運ぶ。

ちいさい頃は、無地のノートは自由帳とよばれ、誰もがカバンや机にしのばせていた。だんだん姿を見なくなったのは、小学校高学年ぐらいからだろうか。
学校の授業では、方眼や罫線の入ったノートが主流で、予め紙に印刷された枠や線にしたがって文字を書く。

そんな風に知らず知らずのうちに、僕たちは外から与えられた「枠」の中に入れこまれていく。

これは価値観についても同じことが言えると思う。

社会の中で生きていくうちに、いつか誰かが社会に設定した基準、評価軸から逃れられなくなっていく。偏差値とか、年収とか、友人の数とか、いたるところに存在する見えない軸。ノートの罫線をムシして並べられた文字に気持ち悪さを感じるように、その中で僕たちは、自分がどの位置にいるかということを気にし、周りの人とくらべて、一喜一憂してみたりする。

でも、そんな評価軸はただの「一般」的な、僕たちの意思とは関係なく植え付けられたものでしかない、ということを忘れてはならない。「世間一般」なる、実体不明の巨大勢力が「大事だよ!」とずーっと耳元でささやいてきて、気付いたらその考えは僕たちの中に根付いている。
僕たちが自分で、「これが大事だ!」と選んだわけではないのだ。

結局、他人に枠組みや基準を決めてもらうことは、楽なのだ。自分自身で考えるよりも、あるものに従っていたほうが労力は少ない。
でも、結局そのせいで、かえって後で苦しむことが非常に多い気がする。


なんで偏差値が高いほうがいいのか? なんで収入が高いほうがいいのか? なんで友人の数が多いほうがいいのか?


なんで一般的に「良い」と言われているほうがいいのか?


「一般的に良い」とか「常識的に良い」という理由には何の意味もない。それは自分の意見ではないからだ。
そんなよくわからない他人の評価軸にのっとって人と競ってみたり、人を羨んでみたりしても、きっと苦しくなるだけだ。


真っ白のページに、好きなものを好きな位置に描くように、自分の価値基準は自分が決める。自分が思う理想像にのっとって、自分で大事なものを選ぶ。

そう思い至ってから、何かを人とくらべて落ち込んだりすることがなくなった。
自分にとって大事な点で優れている人に対しては、参考にしようと前向きに思えるし、自分が重視していない点で優れている人に対しても、やっかみなく純粋に尊敬できるようになった。
とても生きやすいし、楽しいなあと日々思う。


どこかの誰かに勝手に決められたページの使い方をするつもりはない。
これからもきっと、僕のカバンの中には無地のノートが入っている。


▼自己紹介です。興味のある方は是非!


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