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いじめってやつを考えて、やっつけようよ

「コスチューム事件」なんて言われますが、
あの出来事のこと少しみんなで考えた方がいいと思いましたので記事にします。
私個人的には某テレビ局の「リアリティーショー」を実は毎週見ていて、個人的にもかなり思うところがあったので記事にすることに決めました。

SNSを取り巻く多くの問題が現れたのかなと思います。
SNSの普及は人類に多くの利益をもたらしていると思いますし、存在そのものが問題というわけではありません。
ただ、便利なものには必ずデメリットがありますよね。もちろん悪用されてしまえば、それは人を傷つけてしまう凶器にも変わってしまうのです。


加害者は?一体何者なんだろう

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あれ?SNSが傷つけたの?
メディアというのはあくまで「媒体」であるということ。
間違えてはいけないのはメディアが彼女をしに追い込んだのではなく、様々な環境やきっかけ、そして「人」が彼女を追い込んでしまったのですよね。
そんなことはもちろんみなさん気づいています。

でも、振り返るべきポイントはこの「人」という部分。
想像できることは、このコロナ 自粛期間において我々が人と人との距離について非常に考えさせられました。
もちろん近ければウイルスを共有してしますことやソーシャルディスタンスと言われる社会的な距離感など。

では、我々は今まで距離感を間違えていたのか?
答えはNOじゃないですよね。
その距離感は、もしかしたら誰かにとって危険をもたらしてしまうかもしれなかったが、誰かを守る距離感であったのかもしれません。
SNSが可能にした、バーチャルでの出会いや人と人の繋がりや空間は、そういった人間が本来大切にしてきた距離感を通り越えて、想像を越えて一人歩きしてしまう可能性がありますよね。SNSにはそういった可能性があれば、こうして大きな事件につながってしまう可能性もあります。

きっと、
知らない人が著名人に向かって(一方的にしか知らない人に向かって)
面と向かって、通りすがりぎわに
「死ね」
なんて言わないと思います。
時として飛び越えてしまう距離感がバーチャルな世界にはあるということですね。

いざ人が死んでしまうと「その責任が誰にあるのか」人々は議論すると思います。
でも、原因はいろいろあると思いますし、これが決定的で!と強く、明確な理由を持って死を選ぶ人っていないと思うのです。
行き詰まった先に、多分リタイアがあってそういう選択をしたのかと思います。
昔のスーパーファミコンで、敵に負けたイライラでソフトを無理やり取ってしまう少年のような心で自殺を選ぶ人なんていないと思うのです。

いじめをやっつけたいけど、敵が見えてこないのはもちろんだし、「いじめ」と「自殺」の因果関係は人それぞれ、そしてかなり複雑で、文字通り加害者は一体誰なんだろうと考え込んでしまいます。
でも、そう言った起因を持つ人にとって寄り添って考え込んでくれる誰かがいるだけで心はいくらか楽になるのではないのかな。


どの世界にもある問題が転がっていた

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誹謗中傷や言葉で人を傷つける行為はSNSに始まった問題ではないですよね。
かつての「陰口」というやつについて考えます。
教室を想像しましょう。ネットもまだ普及していない世の中。教室に集まる生徒たちの中にはおそらく嫌いな人もいたでしょう。どの時代にもこういうことはありましたし、現在も吐くなるはずがありません。
人が人を嫌うのは、人が人を好きになることと同じくらい自然な感情だと思います。ただ、陰口はいいことをもたらすわけではありません。
成長の中で(人生経験を積む中で)だんだんとなくなっていくと思います。

SNSの性質の中で、やはりある程度の匿名性が可能にしているところがありますが、この教室の中での状況のように「成長」しないと良し悪しの判断ができないのは当然です。

「これ言ったら相手がどう思うかな?」
「これ言ったら聞いている人は気分良くないだろうな」

考えがまず一歩先に来てから発言があります。
そこには、自分(の行動、言動)に対して客観的な視点があって成り立つものだと思います。そして、同時に目の前の相手を思って言葉が出るのだと思います。

心ないことを言う人というのは、いつの時代にもいて、現在進行形で悩みを抱えている子どもや子どもに限らず多くの大人もいると思います。
職場での、学校でのこう言ったバイオレンスはそうなくなることではないと考えます。

私が考えているのは、たくましくあれ!であったり、気にしなければいいと言った精神論ではありません。
子どもたちに特に伝えたいことは、被害者や加害者といった立場と関係なく「他人を認めること」です。

こういうのは大体自分自身が経験してきたことや価値観の違いや考え方の違い、信条や信仰の違いがくると思います。
人類は遠い昔からそう言った考え方の違いを「言い訳」に争いを繰り返してきました。(言い訳というのはその裏側にある利権の争いなどによく使われるからです。)
大切になってくるのは、「人」が「他人」であることにリスペクトを以て認めることです。そして自分が都合のいいように状況を変化させようとせず、自分が成長しようと思う心に価値を見出していくことです。
精神論や道徳観でさえ、他人との間では差異があります。

当然ながら、当事者である被害者や加害者といった立場にいる人だけで考えていく問題ではないですよね。
教室に例えるならば、教室を構成しているメンバー、環境全部で考えていかなければいけません。その場にいる人だけで社会を構成して生きているわけではありません。やはり、世の中全体で空気感を揃えていかなければいけません。


善悪だけで語るべきなの?本当に大切なことは?

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今現在、この事件で亡くなってしまった方のような境遇にいる人は、もう全世界にたくさんいると思います。
目の前の問題に対して言ってあげられることはそう多くないこともわかっています。

でも、

Enjoy the difference 

じゃダメですかね?違ったっていいじゃない。
楽しんでいけばいいじゃない。

元から違う人、その違う人の自分と違うところを受け入れていきましょう。
もしかしたら、その違いにイライラすることがあるかもしれませんが、その他人があなたに何をするというのですか。
もし、圧倒的に利害関係がはっきりするのであればそれはいじめ(多勢対一)という形ではなく、当事者同士で解決するべきです。方法を間違えてはいけませんね。

でも、その違いって実は興味深かったりするのです。
他人の違いから学ぶことは意外と多かったりもしますし、それこそ虹を思い描いてみてください。あんなにたくさんの色があるから綺麗で、見応えがあって、少し晴れやかな気持ちになりますよね。
人と人もそういうものだと思います。

最後に、言葉でいろいろなことを表現することはものすごく難しいことです。悩みを抱える小中学生は尚更苦労していると思います。私自身もとっても苦労しています。でも、言葉にはものすごい、信じられないほどのパワーがあるので、自分や相手を傷つけるために使うのではなく、言葉の力を信じて前向きに使ってみてはどうですか?
私はそんな言葉の力を信じて記事を書いています。

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