Queering the Map (インスタ)に残されたパレスチナ人達の声を中心に翻訳しました。
パレスチナのクィア達の声を受け取ってください。パレスチナ/イスラエル問題がクィアの問題でもあることを知ってください。
西岸地区・イスラエル(48年占領地)のコメントは翻訳中です、逐次更新します。
「私は自由になりたい。でも、カミングアウトするだけじゃ自由にならない。何よりもまず、パレスチナ人であることが自由だから」(エルサレム南部)
ガザ
いつまで生きられるかわからないから、死ぬ前に自分のこの記憶をここに残したい。どんなことがあっても、我が家を離れるつもりはない。自分の一番の後悔は、ある人とキスをしなかったことだ。彼は2日前に死んでしまった。お互いに大好きだと言っていたのに、最後に会ったときも恥ずかしがってキスできなかった。彼は爆撃で死んだ。自分の中の大きな部分も死んでしまったように感じる。もうすぐ自分も死ぬ。ユーヌスへ、天国で君にキスするよ。
あなたと私が太陽の下で手をつないで座り、ついに自由になるところを、私はいつも想像していた。行けるなら、どんなところへだって行ってみたいと、一緒に話していた。でも、あなたはいなくなった。私たちに降り注ぐ爆弾が、あなたを私から奪い去ると知っていたなら、あなたのことが何よりも好きだと、私は喜んで世界中に伝えていた。臆病者でごめん。
私たちの中にある希望を決して失わない。これがどれだけ続こうと、私たちはまたすぐに一緒になれる。
君が死んだ場所。自分達はメッセージを頻繁にやりとりするだけの関係だったけど、心の底から君を愛してるよ。5年間、君は最高の友人だった。アハメドは空爆で死んだ。君は心を痛めて死んだ。ハーリド、愛してるよ。君が自分にカミングアウトして、自分が君にカミングアウトしたときのこと、アハメドを恋人として紹介してくれたときのこと、それらは愛おしい経験だったよ。君の心を自分とわかちあいたい。でも私たちは海の向こう側に隔てられている。あなたの瞳のために、私はパレスチナを解放する。天国でよく休んで。アハメドに好きなだけキスをして。幸せになって。この人生でも、次の人生でも、自分はあなたについて行く。そうすれば一つになれる。心からあなたを愛してる。
小さい頃から自分が人と違うことに気付いていた。早くから、男の子が好きなことに気付いていた。でも、社会はこれを隠しておくように要求する。今は別のところに住んでいるけれど、未だに自分は点と点を繋げて物事を理解しようとしている。物事がこんなに複雑じゃなかったらよかったのにと思う。家族を傷つけたくない、でも嘘をついて生きられない。
あなたと一緒に、ガザの海に沈む夕日を眺めたい。一晩でいい、この占領が終わり、私たちが一度でも自分たちの土地で自由になれたなら、と思う。
ここで私たちははじめてデートした。座って、子供の頃のこと、クィア・カルチャーのこと、食べ物のこと、バグパイプのことを話した。
好きな子にはじめてキスをした場所。ガザでゲイとして生きるのは大変だけど、どうしてかこのときは楽しかった。近所の男の子達とたくさんエッチなことをしたけど、みんなある程度はゲイなんだと思った。
はじめてキスをした男の子がここに住んでいた。彼のいとこに見つかって、刺されそうになった。それからここには戻ってない。
はじめてあなたのことを好きになった場所。2021年、イスラエルによる最後の大規模空爆があったときのことだった。私が好きなバンドをはじめて聞いたり「燃ゆる女の肖像」を観たりした理由があなただったなんて、あなたは知る由もなかった。すべてがあなたに繋がっていた。今、あなたは留学生で、イスラエル占領軍の爆撃があなたの愛してきたすべての人、すべてのものを奪い去ってしまうかもしれない。あなたの母を、家を、記憶を。世界があなたを裏切ることを、とても残念に思う。あなたの母を、妹を、親友を、全てを、このジェノサイドが奪ってしまうことを。
ガザでの生活を辛抱させている唯一のもの、それは海とあなたです。
メディアが何と言おうと知ってほしい。ゲイのパレスチナ人はいるぞ。私たちはここにいるぞ。私たちはクィアだ。パレスチナに自由を。
私はここにいた。私はクィアだった。パレスチナに自由を。
気付いた、あなたに抱いている気持ちが愛しさ以上のものだと。気付いた、あなたを毎日見ていたいと。あなたと一緒にいたいと、あなたと話したいと。あなたのくれた名前で私を呼んでほしいと。言葉では説明できないくらいあなたが愛おしい。あなたに伝える勇気があったらいいのに。でもそのたびに私は怖くなる。あなたをトラブルに巻き込みたくないから。今は、私もあなたもガザ地区の外にいる。でも、さらにお互いにさらに離れてしまった。
愛してるよ。あなたも私を愛してくれていたらと、思ってる。
私はラファ出身で、彼女はデイル・アルバラハ出身。彼女は後に結婚し、私はガザ地区を去った。今でも、あなたのことを想う。今でも、ガザに戻り、同じベットであなたと一緒に眠れたら、と願っている。また私の名前を呼んでほしい。愛おしい人、また一緒にいられたなら。
あなたを愛してる。例え、私の心から永遠に去ってしまったとしても。
ヨルダン川西岸地区・東エルサレム
カミングアウトすることは私にとって何の意味もない。私はハイファを見てみたい。両親が去らなければならなかった村を見てみたい。殺された兄に会いたい。私は自由になりたい。でも、カミングアウトするだけじゃ自由にならない。何よりもまず、パレスチナ人であることが自由だから。兄と同胞のパレスチナ人達に神の慈悲がありますように。
クィアのパレスチナ人として、自分がいつの日か帰る故郷
もしパレスチナが植民地主義によって奪われなかったなら、このあたりに私は住んでいた。私は十代のバイジェンダー、バイでアロマンティック、パレスチナ人でシリア人。一度も訪れたことがないけれど、いつも私の故郷を恋しく思う。パレスチナの解放を、パレスチナがまたもとに戻る日まで。私はアンマンに住んでいて、ハルダの学校に通っている。愛してるよ、マヤ。あなたは一番の親友だよ。あなたが私を愛してくれることはないと知っていても。
ほんのちょっとしたなんてことのないやりとりの中で、私たちは意味深な視線を交わした。でもそれで、自分達が本当は何者なのか、私達は気付いた。たとえ数秒だったとしても、真の姿を見てもらえて、解放された気分だった。
はじめてカミングアウトをした相手は父だった。自分の大事な秘密を誰かに打ち明けたくなったとき、墓地に行って父に話す。もしあなたが生きていたなら、自分がゲイだとあなたに話すことはできなかっただろう。でも、父以外に話せる人はいない。近しい友達にさえ話せない。
ここで私は自分がクィアだと気づいた。これを読んでいるみんなへ、あなたは生きるに値するし、神はそのままのあなたを愛している、このことを知っておいてほしい。私たちは存在するし、それは間違ってもいない。勇敢で、そして美しくあれ。
イスラエル(48年占領地)
想像がつくかもしれませんが、このサイトを開いてパレスチナ人たちの話を読み返すたびに、私は泣いてしまいます。私がティベリアで経験したLGBTQな体験を共有できればいいのですが、難民なのでそうすることができません。この場所について私の知っている唯一のこと、それは1948年に祖父母が体験したことです。それは愛ではなく悲劇です。これを読んでいるみなさんへ、どうか、入植者植民地主義を支持しないでください。私たちに向けられた民族浄化を支持しないでください。
はじめてイスラエル/パレスチナを訪れた時、ティンダーでマッチングした元空軍将校とデートしました。彼は「ガザで住宅を標的にしたんだ」と言って、私を感動させようとしました。私はこのデートを絶対に忘れません。この紛争にかんして、私の視野を根本から変えました。
空港に降り立った数時間後、グラインダーで軍服を着たイスラエル人の男達から「お前を殺す」というメッセージが届きました。笑った顔と、D9-Zマシンガンの写真付きでした。こういったメッセージが届かないようにするために、私は名前の横のパレスチナの国旗を消さなければいけませんでした。これが、カナダのパスポートを持っているという特権を使って、父母達が追い出された土地を訪れた、はじめての体験でした。
レバノン
ナクバで、私の祖父母はパレスチナの自分達の土地を追い出され、レバノンに逃げた。その後、私の家族はレバノン内戦でフランスへ移住した。逃げる前に祖父が家から持ち出せたもの、それは鍵と家の前で撮った祖父母の写真だけだった。祖父はいつもジャッファ・オレンジ(ヤーファー産のオレンジ)のことや家のこと、地中海のことを話していた。私は大きくなり、私が誰なのか、どこから来たのかを知りたくなった。だから、2017年にオールド・ジャッファ(ヤーファー旧市街)にある祖父母がもともと住んでいた家を探しに行くことにした。手短に言えば、地元のパレスチナ人の助けを借りて、祖父母の家にかつて繋がっていた階段を見つけることができた。そして私たちは家を見つけた。私たちは、かつてキッチンの窓だった、明かり取りの窓を見つけた。私はプライドフラッグが、盗まれた私の土地の、祖父母の家に掲げられているのを見た。クィアのパレスチナ人として、プライドフラッグを見て怒りが込み上げ心が折れそうになったのは、この時だけだった。
翻訳:ريحان السوغامي