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空爆下で書くということーーサマル・ヤズベク『歩き娘』から文学の(不)可能性を考える

 小説、とりわけ長編小説は普遍的なものではない。空爆されながら、長編小説を書くことはできないし、それを読むことも困難を伴うだろう。
 完全封鎖下のガザで書かれた長編小説は、筆者の知る限り存在しない。例えば、2008年のガザ侵攻の記録であるサイード・アブデルワーヘド『ガザ通信』や、2023年10月以降のガザ侵攻を記録したアーティフ・アブー・サイフ『ガザ日記: ジェノサイドの記録』は、外の世界に向けて英語で書かれた記録であり、フィクションではない。
 アラブ文学者の岡真理は「一つの悲劇を咀嚼して消化する、そんな贅沢はパレスチナ人には許されていない」というジョー・サッコーの言葉を引いて、パレスチナ人が現在進行形の民族浄化を経験しながらそれを小説として再構築することが困難であることを指摘する(岡2024:68-69)。一つの悲劇を噛みしめている間に、次なる悲劇がやってくるのである。このような観点から見れば、長編小説とは一部の人にのみ許された特権である。
 だとすれば、フィクションの世界において、ガザは空白地帯になってしまうのだろうか。シリアは、イエメンは、スーダンは、西サハラは、空白になってしまうのだろうか。
 こういったことを、今年の6月に発売されたシリアの作家の長編小説『歩き娘』を読みながら考えた。


作家でいることをやめなくてはいけない瞬間

 今年の6月、シリアの作家サマル・ヤズベクの『歩き娘』が翻訳された。
 ヤズベクはシリアのラタキア県生まれの作家で、シリアの独裁者であるバッシャール・アサドの一族と同じアラウィ―派という宗教マイノリティの出自を持つ。だが、シリア革命以降は、反体制派を支持し、革命の実態を世界に伝えるために、ノンフィクション的な作品である『交戦』と『無の国の門』を発表し、世界的な注目を集めた。

 彼女はもともと小説を書いていたが、シリア革命に直面した時、もはや小説家でいることはできなかった。シリア政府が自国民を殺害しながら世界に向けて嘘の情報を流し続けるのを目撃したヤズベクは、記録文学に軸足を移さざるをえなかった。

私は小説家で、ジャーナリストで、女性の権利を擁護する活動をしてきましたが、記録文学を書いたことはありませんでした。革命の只中で、そうせざるを得ない瞬間が来たのです。それは辛いことで、小説家としての私の存在に反することでした。

山本薫編「シリア知識人との対話 ヤシーン・ハージュ・サーレハとサマル・ヤズベク」千葉大学・グローバル関係融合研究センター, 2021, p. 92

 ヤズベクは小説から離れ、『交戦』(2012)と『無の国の門』(2015)を発表し、シリアの現状を記録し世界に発信した。この二作は大きな注目を集め、多くの賞を受賞し、後者は20言語に翻訳された。しかし、彼女が創作に復帰した最初の作品である『歩き娘』(2017)は前の二つの作品ほどの注目を集めなかったという。
 ヤズベクは「欧米でも世界中のどこでも、文学者として読まれているアラブの作家は一人もいません」と断言し、記録作品だけが市場で売れることが「私たちから作家や芸術家という特性を奪い、活動家や特派員といった存在にのみ変えてしまう」と指摘する(同上:95)。
 ヤズベクは記録作家にならざるをえなかったばかりか、世界から記録作家であることを期待された。長編小説や劇映画を作れないという環境だけでなく、記録文学やドキュメンタリーでしか注目を集められないという二つの面において、ヤズベクの作品をはじめとするシリアの表象ーーさらに言えばパレスチナの表象ーーはその他の世界と非対称な関係性を結んでいるのである。

『歩き娘』

 以上のことを踏まえて、ヤズベクが創作に復帰した記念すべき作品である『歩き娘』を読んでいこう。ヤズベクがこの作品を書いたとき、小説から遠ざかってから6年もの歳月が経っていた。

 『歩き娘』はリーマーという少女の手記という形をとる。主人公のリーマーはシリアの首都ダマスカスの南部で母や兄と共に一間の家に住んでいる。自分の意志に関係なく足が勝手に歩き出してしまうという奇癖を持っているため、家の中でも、外においても、常に紐で手をつながれている。自分の意志で話すことができず、『クルアーン』の朗誦といった音読や叫び声をあげることしかできない。
 ある時、リーマーは母と共にスアード女史の家を訪ねに行くが、その途中、街中のある検問所で、母がバスの外へ引きずり出され、その際に手につながれていた紐が外れてしまう。枷から放たれたリーマーは、静止する声を振り切って、検問所へ向かって歩いてしまう。止まらなかったリーマーは肩を撃たれ、リーマーを庇った母は射殺されてしまう。
 その後、リーマーを引き取った兄は、反体制派の地域であったグータのザマルカーに向かう。グータは政権側によって包囲・封鎖・空爆が行われており、リーマーは空爆が続くグータで、ある一家と共に生活する。しかし、その家も空爆にあい、リーマーの面倒を見ていた人たちも殺され、その後は兄と半壊したその家で生活する。
 ある時、グータは政権軍による化学兵器の攻撃を受ける。リーマーはその攻撃を生き延びるが、兄はその現場に残ることを決意し、リーマーは兄の友人ハサンと共にドゥーマーへと逃げることになる。リーマーはそこである建物の半地下の部屋にかくまわれる。あるとき、ハサンはすぐ戻ってくるといって外へ出ていくが、帰って来ない。食料や水がつき、8月の猛暑にさいなまれる中、鉄格子の窓に紐でつながれたリーマーは青いペンで紙にこの手記を書きながら、地下室で一人、ハサンの帰りを待ち続ける。

 この物語は、実際にあった出来事を下敷きにしている。科学攻撃とは、2013年8月21日にダマスカス近郊のグータで起きた科学攻撃のことである。シリア政府軍が反体制派の地域であった東グータと西グータに化学兵器を搭載したロケット弾で攻撃を行った。この化学兵器とはサリンのような神経ガスだと考えられ、これにより何百人もの一般市民が殺害された 。


なぜ歩き娘が語り手なのか

 この物語で重要なのは、語り手(書き手)のリーマーが、自由に歩けず、自由に話せない、多くの物を奪われた不自由な存在だという点である。リーマーは手を拘束されることで自由に歩くことを制限され、ほとんどの時間を家で過ごしていた。義務教育を受けておらず、9歳まで通っていたクルアーン学校の他に教育は受けていない。母と共に職場の学校へ行き、そこの図書館で本を読んで暮らしていた時期もあったため、豊富な読書経験があり、芸術家肌で創作にも長けているが、世間には疎い。リーマーは、社会について何も知らず、友達もおらず、世間からは普通ではない人とみなされる存在である。

 シリア革命を小説として表現するのであれば、リーマーの兄のように、シリアの独裁政権の腐敗を目の当たりにし、若者として革命に参加し、武器を取って最前線で戦った人物を主人公に据えることもできた。しかし、ヤズベクは、リーマーのような人物を主人公として選び、暴力を暴力的な言葉ではない方法で表現することを選んだのである。それはなぜだろうか。これに完全な答えを出すのは難しいが、一つには、リーマーこそ文学を必要としている存在であるということが言えるだろう。

 第一に、彼女にとって、書くという行為は、リーマーが主体性を取り戻す行為であった。リーマーは様々な自由を奪われていただけでなく、女性として、意志に反して歩いてしまうという奇癖を持つ普通でない人間として、他者から守られ、受動的な立場を強いられてきた。最後には、母、兄、ハサン、すべての人を失い、極限状態の中、一人でハサンの帰りを待つ。ハサンが戻ってこないことがわかると、自らの手と窓の鉄格子をつなぐ紐を切り、自分の意志で外に出ようとするが、紐を切ることができない。八月の炎天下で、水もなく、食べ物もない。空爆された街には人がめったに通らず、助けを呼ぶこともできない。そのような過酷で理不尽な状況の中で、書くことだけが、彼女の主体性を取り戻させる行為だったのはないだろうか。

 第二に、彼女は他人に記録されるのではなく、自ら書くことで、この物語を私たちの下に届けている。ハサンはカメラを持ち歩き、政権による民間人の殺害を記録におさめる役割を負っている。科学兵器による攻撃の際も、ガスを吸って亡くなった人々の遺体を写真におさめている。だが、そのカメラが生きたリーマーに向けられることはない。記録文学という代理表象ではなく、自らの手でシリア人の女性が書く意義を、ヤズベクはこの小説を通して示したのではないだろうか


「詳しく語りなおすことでしか物語は完成しない」

 小説の語りの形式からも、この作品を見ておこう。リーマーの手記は、一般に物事を叙述するときのように、出来事をA→B→Cと順番に書き連ねていくのではない。何度も回想を挟み、様々な記憶を行き来しながら、少しずつ過去から現在へと物語が進んでいく。何度も話を脱線させながら、かつての母や兄との生活や、検問所の事件以降のことを繰り返し書く。この物語の構造をリーマーは「中心が重なった円」と表現し、「詳しく語り直すことでしか物語は完成しない」と語る(ヤズベク2024:225-226)。
 なぜ、リーマーは物語を一本のストーリーラインに整理し、直線状に配置するのではなく、同心円に例えられるような繰り返し物事を語りなおすような構図にしたのだろうか。これは、リーマー自身のこだわりであると同時に、リーマーが自身の経験を思い返し咀嚼し理解する過程そのものと考えることもできるだろう。リーマーは次のように語る。

人には、自分に起きていることを考える時間は与えられません。私も含めて、まるで、押し合いへし合いしながら駆けて生きる牛の群れみたいです。私と同じように、皆、何が起きているのかを知らずにいるんです。大きさだけは牛くらいあるネズミみたいに! そして私も皆と同じように、毎日、頭上に爆弾が落ちてくるのに対して身構えているんです。

サマル・ヤズベク『歩き娘』柳谷あゆみ訳, 白水社, 2024, p.106

 リーマーの同心円状の語りには、封鎖・包囲・空爆にさらされている彼女が、自身の身に起きていることを理解しようとする格闘が刻印されている。これは同時に、封鎖・包囲・空爆にさらされる人が整理された物語を書くことの困難さを、つまり整理された物語が包囲・封鎖・空爆にさらされていない安全圏の人々にのみ許されていることを示唆しているだろう。 
 これは、冒頭で言及した、占領や空爆下における小説の不可能性と符合する。一本のストーリーラインに整理されない同心円状の語りは、物語を整理することの不可能性や、出来事の非物語性を示しているのだろう。これ自体が、この小説のメッセージだと考えることはできないだろうか。


書くことの力

 リーマーは手記を書くことによって、起きていることを理解し、忘却に抵抗しようとする。そして、その手記が誰かによって発見されたからこそ、活字化され、小説という形で出版されていると考えるならば、リーマーは書くことによって、自分の声を外の世界へ届けたことになる。ここで注目すべきは、リーマーにとって文学は無力であるどころか、むしろ生きるのに不可欠な存在であったということである。

 アラブ文学研究者の岡真理は、『アラブ、祈りとしての文学』の冒頭で、「アフリカで子供が飢えて死んでいるとき『嘔吐』は無力である」というサルトルの言葉を引き、「パレスチナでパレスチナ人が虫けらのように殺されているとき、文学は何ができるのか?」と問うた。それに対して、岡は、2002年4月にパレスチナ西岸地区のベツレヘムを訪れたときの経験を挙げる。

 町を占領するイスラエル軍が外出禁止令を出し、外を動いているものは猫でも撃たれるとさえ言われる状況で、パレスチナ人達は何週間も家から出ることができないでいた。そんな中、ある家の20代半ばの女性の「ときどき気が狂いそうになることがあります」「でも、本を読んだりして気を紛らわしています」という言葉を聞き、本こそが、バルコニーの花や客人をもてなすレモネードと同じように、何週間も自宅で囚人になるという不条理な状況で、彼女を人間たらしめるものとして存在していたことに気付く。岡はこのように指摘する。

作家たるもの、今日飢えている二〇億人の人間の側に立たねばならず、そのためには文学を一時放棄することも止むを得ない、というサルトルの言葉は、文学という営み――作品を書き、読むという営み――を此岸に、アフリカで飢えて死んでいる子どもを彼岸に対置する。しかし不条理な現実のなかで人間が正気を保つために文学を読むのだとすれば、サルトルの提起とは反対に、アフリカで飢えて死んでいく者たち、彼岸の飢えている二〇億の人間たちこそが、ほかの誰にも増して切実に文学を必要としていると言えるのではないか。

岡真理『アラブ、祈りとしての文学』みすず書房, 2008, 12-13


 これは、『歩き娘』においても同様だろう。私たちはシリア内戦に向き合い、何度も繰り返された民間人の虐殺に向き合うとき、文学は途方もなく無力なものだと考えるだろう。しかし、そう考えるとき、私たちは私たちのことしか考えていない。文学を読んで書くことのできる私たちを此岸に置き、そうではない人々としてシリア人を彼岸に押し込めているのである。

 虐殺や飢餓を前にして、文学の力は極めて弱い。文学が殺されてゆく人々の生を支える微力になるからといって、文学という世界の殻に閉じこもり、手をこまねく言い訳にはならない。命を救うには、私たちが虐殺への加担から手を引くには、文学という方法だけに拘泥している場合ではない。それでもなお、文学には力がある。この歩き娘リーマーや、ベツレヘムの女性のように、今こそ切実に文学を必要とする人たちがいるのである。

文学の限界を直視する

 2023年の1月1日から10月7日にかけて、パレスチナ西岸地区では200人以上のパレスチナ人がイスラエル軍や入植者に殺害された。しかし世界はその者達の死を悼まなかった。
 2024年4月2日、イスラエル軍はワールド・セントラル・キッチンのスタッフ7人が載る車を空爆した。オーストラリア人やイギリス人のスタッフが殺されたとき、世界は怒り狂った。しかし、車の運転手であったパレスチナ人の死にも、あるいは、ガザで殺された数万人のパレスチナ人達の死に、同じ怒りを向けたのであろうか。
 ジュディス・バトラーが言うように、悲嘆可能性は極めて不均衡に分配されている。さらに、パレスチナの影にシリアやスーダン、イエメン、西サハラなどが隠れていることを考えれば、悲嘆可能性は二重にも三重にも不均衡に分配されている。この不均衡の中で、文学はどのようにあるべきだろうか。
 シリアの場合、ヤズベクがリーマーの声を代弁した。しかし、そのような者がないスーダンやイエメン、西サハラは、文学の世界においては不在になってしまうのだろうか。
 これは、文学の限界を直視すると同時に、その可能性を広げる問いであるのかもしれない。


2024年8月15日、日本が二度と戦争をしないという誓いの日に
ريحان السوغامي

参考文献

岡真理『アラブ、祈りとしての文学』みすず書房, 2008
岡真理「「人間の物語」を伝える責務」(インタビュー)『現代詩手帳』, 67(5), 2024
サマル・ヤズベク『歩き娘』柳谷あゆみ訳, 白水社, 2024
サマル・ヤズベク「著者からのメッセージ」(インタビュー), 山本薫編「シリア知識人との対話 ヤシーン・ハージュ・サーレハとサマル・ヤズベク」千葉大学・グローバル関係融合研究センター, 2021
https://www.hrw.org/ja/news/2013/09/10/251095
「シリア:政府による化学兵器の使用 可能性大 ロケット弾の分析と 目撃者の証言に基づく新証拠」(2024年7月22日閲覧)

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