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📒友達は使い捨て

うんざりする。


「実は私、あの子のこと嫌いなんだよね」。

え、昨日まで仲良く二人でいたよね。
え、さっきまで話してたよね。

開いた口がふさがらないとは、まさにこのこと。

「あの子があなたの悪口いってたよ」。

ついでに悪口伝書鳩の役割もかってでる。
随分積極的な人もいたもんだ。


薄情だ。
あまりに脆すぎる人間関係。

そんなもの、腐るほどみてきた。

SNSが発達してからここ数年、さらに拍車がかかったように感じる。


大変だな、今の学生は。

と、まるで他人事のように思えるのは、
年を重ねて『人を選ぶ』ことを知ったから。
(もちろん自身も誰かに選ばれている)。

自分の周りにトラブルがないのがなによりの証拠。


まぁなんでこんな半紙より薄い友情があるかって。
その理由は単純明快。

誰かの悪口によって形成された仲間。
だから関係性は脆いし薄いし不安定。


誰かの悪口によって作られた友情は、互いの悪口で崩壊する。


SNSで簡単に人と繋がれるようになった分、人を消費しているようにも感じる。安定しない人間関係をみていると、まるで『友達は使い捨て』かのようだ。半紙より薄い友情物語は、はたから見れば非常に滑稽だ。

安易に繋がれる=簡単に捨てられる

悲しいけれど、そういうことなのだろう。
別にSNSが悪いわけじゃない。
使い方やその人の考え方、傾向が全てだとも思う。


そんな消費される人間関係。使い捨てにされている繋がりを幾度となくみてきた。ああ、最近一緒にいないな。なにかあったんだろうな。次々に新しいコミュニティができて、でも『誰かの悪口』が主体だからすぐに壊れる。その繰り返し。まるで人狼ゲーム。

言った言わない。
自分の都合のいいように嘘をつく。
ある種の虚言。

はたから見ているだけでも疲れるよな、と。


もし、SNSの人間関係で悩んでいる人がいたら頭のすみに置いてほしい。
同じものが好きだからといって、仲良くできるとは限らない。

結局はその人の人柄、人間性、性格が合うかどうか。好みは別物といっていい。価値観の類似(や譲歩できる気持ち)が全てだと私は思っている。

相手の短所を『特に気にならない』と思えるかどうかが重要。ウィークポイントを弱点と考えないのは、その人を信頼しているなによりの証拠。もしくはそれを上回るなにか(好きなところ)がある。私の友人たちはそういう人たちばかり。だから関係を長く保てる。おまけに喧嘩なんてしたことはない。

なにより一番は、口は災いの元と肝に銘じること。
何事も言わぬが花である。

誰にでもペラペラ話すもんじゃない。

たとえば本当になにか悪いことがあったときに『仕方ない、私が悪かったんだ』と思える人だけに私は心を開いて話をしている。

この人にそうさせるほど、私はなにかをしてしまったんだと素直に思える。
自分の周りはそういう人だけで十分。早々出会えるものではないけれど。
ただ、他者との人間関係を築く上で排他的にならないようには注意している。

SNS上の関係も同じ。下手なストレスを抱えないために、誰でもかれでもと積極的にかかわりにいかない。どんな人かなんて、画面上では絶対に知り得ないことを理解しているからだ。

あとね、最後に。

その悪口、明日は我が身。

負の言葉はめぐりめぐって自分に返ってくる。
そのときは手遅れ。倍以上の痛みと辛さで堪えるよ。

人は財産。大事にした方がいい。
あなたを大切にしてくれる人にだよ。

自分がもし、SNS全盛期に学生だったらと思うとさ、ちょっと怖いね。それは随分な偏見でもあるけれど。

友達を消費するような人間は、一生使い捨てで生きるんだろう。
自分がその対象であることも知らずにね。


付き合う人間は考えた方がいい。
都合のいい駒になんてなるものか、ってね。

大事にしてくれる人、したいと思える人は、この広い世界にたくさんいるよ。






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