雲の向こう、ESの場所

タイトルは新海誠監督の映画『雲の向こう、約束の場所』をオマージュしたものである。もちろん映画の中で主人公の二人は「約束の場所」にたどり着けない。そもそも約束した場所なんてこの世に存在しないのかも知れない。そこにはあらゆる可能性があるのだが、今回したい話はそれとはちょっと異なる。

例えば大学の新入生が自分の専攻を選ぶ際、彼・彼女は偶然の出来事や偶発的な選択で専攻を選ぶことがしばしばおこる。一年生には有限の選択肢がそれぞれに与えられる。選択肢の中で一つの選択肢を選ぶのは大概「自由に選ぶ」という風に理解され、彼・彼女も後で問われれば素直に「自由にやりたいことを選びました」と答えてくれる。普通じゃない答えを出す人も中にはいるかもしれないけれど、それは少数に過ぎない。

でも自由に選ぶって何だろう?本当に自由に選ぶことが可能であれば選択を後悔する事態は起こらないはずだ。が、みんなそれじゃないと思って専攻を変えることもかなりの頻度であるから、本当に自由に選びましたという前提に問題が佇んでいる可能性がある。一つ例をあげよう。近代の大学(ユニバーシティー)に専攻を選ぶという概念はそもそも存在しない。人間が何かを学びたいと思って大学に入ったら学びたい「知識」を全部学ぶまで自分の専門分野を決めなくても良かった。彼・彼女は教授を選んで授業に出席して、単位を取るとまた違う授業に出席し、最終的に学位を取得した。学位のタイトルには卒業論文の分野の名前が書かれた。それが現代の専攻となった。

精神分析家であるフロイトは「Wo Es war, Soll Ich werden」と言った。訳すと「それがあった場所に、私は行かなければならない」なのである。勉強が常に新しい知識の領域を探究するある種のプロフェッショナルな研究活動であれば、私たちの目的地は「それがあった場所」ではなくて、「それがあるはずの場所」である。何故なら新しい発見と新しい知識は既に存在してる何かでは明らかにないのだから。それでも、人文科学(人文学と社会科学)が特にそうなのだが、勉強が先駆者によって研究された知識と探求に光を当てる(shed light on)ある種のプロフェッショナルな活動であれば、私達の目標は「それがあった場所」に別の道程で到着することであるに違いない。

つまり現代の総合大学が学生たちに一つの「専攻」を一年の時に強いることには、人文学の目指す「それがあった場所」ではなくて科学と工学の目指す「それがあるはずの場所」を重要視する観点が含まれている。明示してないが暗黙的にそうだ。私達がいくら研究を頑張っても人文知に到達出来ないのは恐らく、知らぬ間に現代人が「それがあるはずの場所」を目指すようになったからではないか。方法論が鋭い方法論になり、分析の仕方が精巧になっても到達できないあの場所を、勝手ながら僕は「ESの場所」と名指す。

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