見出し画像

こわいはなし

先日、大学時代の先輩に怪談バーなる場所へ連れて行ってもらった。まず自分では間違っても選ばないような店だ。
というのも私は怖いものが非常に苦手で、この苦手という気持ちを詳しく説明するならば
①急に何かが出てると些細なことでも驚いてしまう
②これから驚かされるという緊張感で精神が疲弊する
という二点が原因として挙げられる

結果から言うとこの怪談バーにまんまと怖がらせられ、二度と行きたくないと思う程度には大ビビりだった。ただ気づきや疑問などネタとして得たものもあり、話の長さや怖さや笑いの数なんかは落語に近いものがあること、落語はリラックスして聞くが怪談は緊張下で聞くので間の取り方が少し違うことなどなど類似点と相違点に気がつけた。
他にも役割語(〜じゃ、〜ザマス、〜だぜ等キャラを分かりやすくするために用いる語)が豊富な日本語は一人何役も必要な怪談に向いているなだとか、お菊の皿や死神なんてオカルト系な落語の演目もあるが怖さの類が違うなだとか、考えるタネとしては十分すぎる体験になった。怪談に関しては自分の脳内知識マップには上述したものと相対的に距離感を図って怪談とは何かという仮の定義をしたが、今後時間があるときに詳しく調べて怪談の定義という正確な座標を探していきたい。

今回改めて認識したことが定期的に他者が選んだ体験というのを積極的にすべきだということ。スマホのニュースなどでも今は利用者が選んだ興味のある記事だけ読むし、ニュースサイト側も利用者の好みにコミットした記事ばかり勧めてくるのでただの気持ちよくなるツールと化してしまっている。自分の好みと世間の感覚にズレが出た状態が続けば、自分の頭上だけ天気が違う感覚に陥るかもしれない。

ここ数年特にロジカルシンキングが浸透してきているが、論理はあくまで製図機能であり何かを作るための材料が知識ではないかと思っている。全員が論理的な思考を身につけたとき他者が持っていない知こそ人と差異化を図るための武器になりえるだろう。民俗学者のレヴィ=ストロースは原住民達が有り余りの切れ端などを材料とする日曜大工を「ブリコラージュ」と呼んだ、西洋の理論や設計図によって作られる「エンジニアリング」では思いつかない新しいモノが産まれる野生の思考法だと説いた。有り余りの切れ端と他者が持ち合わせていない知とではニュアンスが異なるかもしれないが、西洋的な作図では使わない部品という意味では共通していると思っている。

情報のソース源と思考法をそれぞれ二つに分けているといことを書いてきましたがどちらが正解ということではなく、単一的な方法はリスクヘッジ面でも怖いので保険として違う方法も持っておきたいなくらいに思ってください。
私として人として面白くありたいくらいしか目的はないのですが、自分の味付けを変えたいときは自らを構成する情報ソース源の割合を変えてみたり作図方法を変えたりするといいかもしれません。

#ブログ #note #エッセイ #日記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?