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他人ではなく、自分を推そう

世間では、「推し」がブーム?だ。
「推しの子」というタイトルの
漫画・アニメも売れている様子。

筆者は、この「推し」という言葉に、
ずっと違和感を感じている。

有名人や、キャラクターのことを
「好き」という表現ならわかるが、
「推し」となると、「好き」を超えて、
過剰にのめり込んでいる印象
を受ける。

というのも、筆者の周りで、
どうやら、これが「推し活」なのかな?と
思われる行動を取っている人がいるのだ。
余暇のほぼすべてを「推し」に
関連することに使っている様子。
動画を見たり、メディア情報を追ったり。
また、自由になるお金もおそらく、
ほとんどを「推し」関連のグッズや
イベントごとに使っている。

つまり、お金も時間も、
「推し」に捧げている状態なのだが、
筆者にとっては、これがどうしても
健康で有意義な行動には見えない
のだ。

「推し」「推し活」と、
新しい概念みたいな言葉が
付けられているけれど、
やっていることとしては、
ただの消費行動に過ぎない。
儲けるための、企業が打ち出した
マーケティングに踊らされているだけ
だ。

「推し」に時間やお金をいくら投下しても、
自分の人生には、直接的な影響はない。
また、「推し」が芸能人であっても、
創作物であっても、
いつかは終わりや休止を迎えるもの。
まあ、そうなったらそうなったで、
新しい「推し」を見つけるのかもしれないけど、
それって果たして、
自分の人生を生きていると言えるのだろうか?

「推し」までいかなくても、
他人の人生に強い関心を寄せる人は、結構いる。
筆者の職場では、プロ野球選手である
大谷翔平さんの話をしつこくしてくる人がいる。

筆者は野球のことはよくわからないけど、
大谷翔平さんがどうやら、
かなり能力が高い選手っぽいということはわかるし、
ルックスもかっこいいな、と思う。
でも、まるで自分の息子かのように、
試合の結果や、彼の人となり(?)を語るのは
正直よくわからない。
自分自身の息子の話なら、まだわかるんだけれど。
(それはそれで、興味がないことには変わりない)

「推し」に熱狂する人たちは、
「自分の人生」はあきらめたんだろうか?

「推し」に使うお金で、
自分が興味ある分野の書籍を購入したり、
「推し」に使う時間で、運動や自己研鑽をしたら、
人生がだいぶ好転すると思うのだが。

泣いても笑っても、
死ぬまで自分と過ごすのは自分だし、
自分のことを一番愛してあげられるのも、
自分しかいない
のだ。

何才であっても、死ぬまで、
自分の人生の主人公は自分だ。
生きている限り、可能性は無限大だし、
どんなことでも、成長することは楽しいはず。

だから、
自分から自分の人生を降りて、
他人に捧げるのはもったいない。

「推し活」は一切しないほうがいい、
とまでは言わないけれど、
「推し」は、自分の人生の脇役に過ぎない、
ということを忘れてはいけない。

このことを、伝えたい人がいるんだけれど、
面と向かって言えるわけもなく、悲しい。


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