天正10年より鹿野藩主となった亀井茲矩公は
新田開発のため、日光池という大きな池を干拓しようと
領内の百姓を集め池の水を海に落とす工事を始め
そして池の口を切るばかりになった時
その瞬間を見ようと近在の人々も蟻の如く集まって来た
堰を切られた池の水は滝のように落ちていき
水が少なくなると、あちこちに魚がひと固まりになって
はね始めた
見物に来た者たちが魚を獲ろうと動き出したその時
一天にわかにかき曇り、雷電風雨もおびただしく
天地まさに崩れんばかりの大嵐になった
見物の群衆は肝を潰して我先にと散って行き
殿もほうほうの態で城に逃げ帰った
さて日光池の堰が切られてから7日目
伏野の浜に異様な大魚が打ち上げられた
それはすでに死んでいたが、長さ30㍍、鱗はまるでカラス貝
目は鱈そっくりの怪魚で、顎から長い舌をだらりと下げ
腹の下に水かきを二つ持ち、背中は藻が髭のように生えている
村人はこれを蛇鯨と言って恐れをなしたという
殿はこれを包丁を持って切り刻み、村人たちに食べてみるように
分け与えた
するとこれを食した者は次々に病に倒れ
殿も21日目に震いがついて寝込んでしまった😓
そこで巫女を呼んで占ってもらうと
「われは日光池の蛇神なり、いわれなくして池を追い出され
数百年の命を失わされたので、怨霊となり村人に祟りをなすのだ」
との託宣があり一同が震え上がった
その後、殿の枕元に美女が夜な夜な立つという怪事も続き
巫女に占わせると「日光池に住んでいた水神蛇霊の祟りなり」という
そこで日光池のそばに「日光大明神」という社を建て丁重に祀ったという
加えて殿は蛇の祭りも興行され、頭の長さ1,5㍍ 胴の長さ18㍍の
巨大な蛇を二つ造らせ
一つを雄蛇にもう一つを雌蛇として仮屋から練りだし
太鼓や笛の拍子も面白く海の近くの御旅所まで囃して送ったという
その後、殿の病気は快癒し、村人たちにも何事も起こらなくなった
という話は「因幡伯耆の伝説」にある話ですが
これを読むと
蛇は水の神霊で、それを追い出すと蛇の怒りに触れるので
その霊を祀るために綱引きが始まったとも取れます😅
国の重要無形民俗文化財「因幡の綱引き」の起源も
弥生時代から始まった水稲耕作によって
水路や土地の開発で、原野や池から追い出された蛇の霊を祀り
豊作を祈るためだったのかも😅
とまた、弥生→稲作→蛇信仰→綱引きに戻ってしまいました😍
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