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【自己紹介】社会のレールから外れたけどバーテンダーとしてやっていく

こんばんは、2/16に千駄木にオープンする真夜中バー、「BAR YOURSELF」の店主Licaです🤵‍♀️

明日がプレオープン、明々後日がオープンということで、睡眠時間を合わせるためにこの時間まで起きています。

さて、今回は私の遍歴について書いていきましょうか。
前回のlikeの記事が陽だとしたら、遍歴は陰ですね。

家庭環境や遺伝から躁鬱になったりジョブホッパーを経験したり、バー業界の闇を知ったり。完全に社会のレールから外れてきたけど、なんとか生きていますということ。

そんな遍歴を書いていこうと思います。

幼少期

幼少期は、大人しい子にならざるを得なかったのかな、と思っています。
最初の頃は笑っている写真が多かったのですが、ちょっと不自然にふざけている写真が多かったのと、絶望したような顔の写真もありました。
家庭環境の悪化と、転校先の幼稚園での阻害でおそらく疲弊していました。
その頃から、「私は人に優しく、親の言うことや先生の言うことを聞いて生きよう」と考えていました。

環境はこんな感じ。(あまりはっきり覚えてませんが、いろんな療法を受けても思い出せなかったのでトラウマなのかな。)

・母が私が生まれる前から統合失調症で、常時泣いていたり、私の髪をわざと引っ張ったり首を絞めるふり?をされていた気がしました。外に締め出されることも。だんだん意思疎通ができなくなっていきました。母も姑に冷たくあしらわれていたので辛かったのかな。そのストレスが私に向かっていたように思えます。

・父は忙しくて、母の状態をよく知らず、よく喧嘩になっていました。結局離婚となりました。

・離婚した後に足立区に越してきて、幼稚園も変わってからいじめを受けました。みんなに無視されたり(先生も含め)、課外授業でひとり迷子になっても助けてくれなかったり、昼食をひっくり返されたり、足で蹴られたり殴られたり。その頃から、現実から逃げるように絵を描くようになりました。

そんな状況で、私は心を他人に対して閉じるようになって、人とのコミュニケーションの仕方がわからなくなりました。
一番この時がきつかったかな。おそらく。もう辛さとか思い出せないけど。

小学校〜高校

小学校になってからも、私の心は閉じたままで、気弱で人に嫌われる人間だと思い込んでいました。(今でもその思いはたまに感じます。)

小学校に入ってから、母の家と父の家の往復が始まりました。それも恥ずかしかった。みんなと同じことをしてないから阻害されるように思って。

母はこの時からちゃんと意思疎通ができない状態にあって、買い物依存になり、部屋にはいろんなものが積み上がっていました。もちろん仕事はしていませんでした。完全に祖母に頼りっきり。

父が唯一まともだと思っていましたが、冷たい人だと思っていたので完全に信用はできなかったです。でも、私にご飯を食べさせ、いろんなものを買い与えてくれました。父なりの愛情表現だったと思います。

小学校でも私は上手く立ち回れなかったです。
クラスのボス的な存在の女の子にDSを奪われたり、その子の家から出られないように軟禁されたりもしたし、自分が苦手だと思う子としか関係を築けなかったり(そもそも、築けてないかもしてない)。

中学校でも。スポーツの部活に入っている女の子からよく馬鹿にされたり、急に悲しみが止まらなくなって泣いて、学校附属のカウンセリングを受けたり。
でも、その時に1人だけ趣味の合う友達がいたのが救いでした。

また、絵を描くことで現実から逃避していました。ニコニコ動画全盛期で、生の人間がいない、2次元の、現実から忘れられるコンテンツがいっぱいあったことも救いだった。

でも、思春期で自分の容姿に悩み、私がこの世で一番垢抜けない、と思っていました。顔から体型まで全部自分のことが嫌いでした。もちろん性格も。

とても真面目で、勉強は幸いにしてできて、そこそこの進学校には入れましたが、コンプレックスの塊でした。私には絵を描くことしかできない、と思っていたので、より絵を描くことに没頭しました。

高校でも、上手く立ち回れなかったです。最初に仲良くなった子達から無視されるようになったり、美術部に入りましたが、上手く他の子とコミュニケーションできなかったり。その頃から、躁鬱のような症状が出ていました。常時眠気もありましたし、毎日通学途中にお腹を壊していました。

自分は恋愛できないというコンプレックスもありました。外見が冴えないし、そもそも感情が湧かないから。でも、周りの子はどんどん彼氏を作っている。なので無理やり関係も構築できていないのに、隣の席の男子に告白したりして、振られたりしていました。

その中で救いだったのが綺麗なものや、サブカルチャーです。友達の紹介で古着に目覚めたり、綺麗な画像を集めたりすることが救いでした。また、その頃も絵が取り柄だと思っていたので、集中して絵を描くことが多かったです

そんな青春を送っていましたが、自分の心身の状態が悪化しました。
きっかけは、沖縄旅行で民泊をした時、普通の家族の食卓の温かさを感じて、涙が止まらなくなってしまったのです。その時にそこのお母さんから、「虐待を受けてきたのではないか」と言われたことが忘れられません。

そして、高校3年の春からお腹がとてもキリキリと痛くて辛かったのと、死にたいと言う気持ちが高まって、周りの音が自分を非難しているように聞こえたりしていました。その症状がピークに達した、高校3年の12月に私はあと少しで卒業できるのに高校を退学せざるを得ませんでした。

真面目に愚直に生きてきたのに、ここから私のレールから外れた人生が始まりました。

大学から専門学校へ

退学する時、父に助けを求めて、母との関係を遮断しました。
父に助けを求めたら、ちゃんと返ってきて、びっくりした覚えがあります。だって冷たい人だと思ってたから。
ここが私のラッキーだったところかもしれません。
また、自分は絶対にこのままでは死なない、なんとかなる、という思考をしていました。惨めなまま死にたくなかったからです。

退学してから半年は、とにかく天井を見つめていました。穏やかな音楽を聴いてましたが、いろいろな母への恨みや社会への恨みが募って、よく泣いていました。
病院にもいきましたが、適応障害だと診断されたり、躁鬱と診断されたりとよくわからなくて、とりあえず薬を出されて飲んではいたのですが、病院への不信感は募るばかりでした。
病院に行く時に、周りの音を遮断していないと外出するのがとても怖かったです。

そんな状態でしたが、1年浪人して、大学になんとか受かることができました。第3志望の学部で、ギリギリでした。

大学でも周りの音が怖かったり、鬱のような症状が続きました。周りとコミュニケーションを取ることが難しく、基本的に1人で行動していました。そんな自分がとても惨めで、よく泣いていました。

この頃からカウンセリングを受け始め、転々としましたが、家族関係のカウンセリングルームに落ち着きました。そこでは私の生きてきた遍歴は、私にとってとても負担で、昨日不全家庭で育ってきて、よくここまで生きてきた、と肯定されました。初めての経験でした。

そして、大学2年になる年に、ふと私は人と違う人生を歩むしかないのではないか、と思って、私には未知の可能性がある、と信じ込むようになり、古着をリメイクするブランドを作る、と言う発想が出てきました。この頃から躁状態が始まりました。

学校を休学し、古着リメイクのプロジェクトに週3で参加し、残りの曜日は性教育やセクシャルマイノリティのサークルで活動したり、レストランのキッチンのアルバイトをしていました。ずっと動いていました。でも、平気でした。

しかし、そんな躁の状態がずっと続くわけでもなく、死にたいと言う気持ちがどんどん出てきて、その時にカウンセリングルームで紹介された病院で、双極性障害という診断を受けました。その頃から薬を飲み始めます。

そのころは躁と鬱の混合状態だったので、こんな大学で辛い思いをするなら、自分で手に職をつけて生きてやる、と思って大学を退学しました。かわりに、デザインの専門学校に入学しました。

それが後々後悔の種になることに気づいてませんでした。

デザインの学校では人とのコミュニケーションがうまくいかない、課題をうまくこなせない、ということから、うっすら憂鬱だったのを覚えています。しかし、同じクラスの人たちが優しかったのと、自分でコミュニケーションの本をたくさん読んでいたので、コミュニケーション能力は徐々に回復していきました。

また、今のパートナー(セフレから始まった)に出会ったことにより、より一層自分のコミュニケーションに自信が持てるようになりました。

しかし、このあと、進路に悩むことになります。

社会人になってバーとの出会い、そしてジョブホッパー

専門学校を修了したあと、自分の経歴がとてもじゃないけど社会的に不利なことに悩まされました。

デザインも苦手だし、どんな職についたらいいかわからない。そんな悩みで頭がいっぱいで、4ヶ月ほど悩みました。

そのころに支援してくれた父には感謝しきれません。

その時に、とあるバーに出会います。嗜好品天国です。
たまたま、そのバーの店長のひるねちゃんのツイートを見て、自分と同じ双極性障害なんだ!と思い、思い切って行ってみたのです。
そうしたら、すごく居心地の良い空間で、バーってこんなに素敵な場所なんだ!と思うように。
私も将来こんな空間をつくりたい、と思い、バーで働くことを決心します。

そこで、アルバイトから応募して、とあるバーに受かりました。

ここから地獄が始まりました。職を転々とすることになりました。

私の経験としては、
・1軒目のバーで正社員として働くことになった時に、最初の条件より低い給与で、一日10時間働くことになり、しかもバーテンダーができなくなって辞める
・2軒目のバーでは最初はその店舗で働けて穏やかに過ごせたが、別店舗に飛ばされて、そこで店長の圧が強すぎて、手や声の震えや凡ミスに悩まされ、鬱になって退職する
・3軒目はカフェで、これまた店長の圧が強くて喘息のような咳が止まらなくなり1ヶ月で辞める
・4軒目のバーはオープニングスタッフだったが、オーナーが飛んでしまい賃金が支払われずに終わる
・5軒目のバーは、人が来ずほとんどガールズバーのような雰囲気で、監視カメラで監視されてキャッチを強要されてやめる

ということを経験しました。
しかし、バーテンダーという夢は諦めきれず、よく求人を見ていました。

そのあとに入った会社ではデザイン業務を担当しましたが、月給がおよそ14万円程度しかもらえず、一緒に住んでいたパートナーに家賃を支払ってもらう羽目に。

私の人生はこれではいけないと思い、求人を検索し、そこで出会ったのが、前職場のバーです。
オーナーは自由な人で、経歴とか全く気にしない人で、一回お客として訪れた際に自分の遍歴を話した結果、あっさり採用となりました。
そのあと、3ヶ月ほどデザインの仕事と並行してアルバイトしたあとに、正社員として登用されました。
デザインの仕事は半年でした。

そのあと、紆余曲折ありましたが、1年と1ヶ月勤めることができました。職を転々としていた私にとっては仕事を続けられるという自信となりました。

辞める前に職場が決まっていたのですが、その職場から改めて不採用通知が来て、焦りました。また、もう一度雇ってくれないかと店長に相談したときにもダメで、完全に職を失いました。

店長にはさまざまな経験をさせてもらって感謝しています。

そんなこんなで職を失い、どうしよう…と思っていた時に、偶然イベントバーエデンの統括をしているえらいてんちょうさんから連絡が来て、イベントバーエデン日暮里の深夜帯をやらないかというお誘いを受けました。
私はそんなチャンスは滅多にないと思い、二つ返事で引き受けました。

今というチャンスの時

そこからメニュー開発、名刺作り、試作、看板作り、メニューデザイン、写真撮り、SNSなど、ありとあらゆることを自分でやりました。

私は影響力がないし、深夜帯ということでどれだけ人が来るかとても心配なのですが、準備は着実に整っています。

バーはこれから開きます。今日14日プレオープンで、明後日の16日に正式にオープンとなります。

メニューや接客は正直、自信があります。短い間だけどやってきて、前のバーの出勤最終日に私を目がけてたくさんの人が集まってくれたからです。その経験はとても貴重で、忘れられません。忘れません。

私は今回の間借りの深夜バーを開くというチャレンジが失敗したとしても、どこかで必ずリカバリーして、成功すると決めています。

社会不適合者かもしれないけど、レールから外れてるかもしれないけど、バーテンダーとしてやっていきたいのです。

私は将来、間借りをいい形で成功させたら、自分のお店を持ちたいです。そこはアルコールだけではなくノンアルコールの飲料も豊富で、体調に合わせて選べるようなバーにしたいです。もちろん、独創的に。そして、人の孤独や不安・マイノリティ性をを少しでも汲み取って癒す場にしたいと思っています。

私は、未来は明るくひらけていると信じています。楽しく、豊かに生きることを諦めません。


ここまで長い文章を読んでいただきありがとうございました。
ぜひいいねや実際に店舗に来ていただくなどで応援いただけると嬉しいです。

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