東南アジア最大のキリスト教国でクリスマス🎄⑤

キアポ教会(2つあるうちの一つ?)に来ました。まずは、ずいぶん大きな聖堂に肝を抜かれました。
タガログ語、それも祝詞となるとまったくわかりませんが、神父が「汝の隣人を愛しなさい。まずは、両隣の人に挨拶を。」とでも言ったのでしょうか、みな、近隣の人に声を掛け合っている姿は、大切なミサの一コマだったようです。
ミサが終わってめいめいに祈りを捧げたり、告白の小部屋を待っている間に、小銭を請う人が来ました。慣れていない私は、そのまま断ってしまったのですが、「早速隣人を助ける期待が来た」と思ったのか、ごく自然に小銭を渡している人もいました。相互扶助なんて、こうやって簡単に実現して良いはずと言えば、その通りです。
時に権力を伴った行政による「税金」の形を取ったり、目的や意図が明確にされるべきという「クラウドファンディング」が、それもインターネットでデジタル化しないと納得できないとすると、それは果たして「人間の理性」の当然のものとして、そんなにも崇高なものなのでしょうか。
「わかりっこないことの方が多い」「機会があれば、考えすぎずに小さな一歩を踏み出せば良い」とでも言わんばかりの、素朴な生き方を垣間見たようで、そういう素朴さを保証する貴重な場として信仰が機能しているのかもしれないなぁ、とまた一つ、「信仰」についての理解を広げたところです。

日本が信仰を希薄化させる背景として、その機能を理性に委ね、それが実現できたこともあったのかもしれません。
巨大なスラムと、政府も手をつけかねるほどの、そこに潜むローカルなルール・権力・秩序が、何で、いかほどのものであるか、私には無論わかりそうもありませんが、そのわからなさに気づけただけでも、大きなものでした。

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