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夢の国を立ち上げた現実を知る伝説の編集マンのお話(2024年5月17日)

「仕事って、楽しい」

この言葉。この人が言うと、心に響きます。

正村英樹さんは、1982年に株式会社オリエンタルランドに入社。”夢と魔法の王国”東京ディズニーランドの開園に立ち合い、CM製作などを手がけました。

1990年には株式会社ザテレビジョン(現・KADOKAWAウォーカー事業部)へ転職し、人気タウン情報誌『東京ウォーカー』を立ち上げ。数々の流行を世に作り出しました。

まさにカリスマ。しかし、当の本人は首を横に振るばかり。

「ぼくのキーワードは、”時の流れに身を任せて”。全然肩肘張ったことはやってなくて、ただなんとなく、運よく仕事がきて、その仕事がまた運よく次につながって…色んな人に恵まれてここまでやってきました」

遊ぶのが好きだ、と少年のような笑み。

「でもね、遊びが仕事になってるんです、全部」

どうしたら、そんなにいきいきと仕事のことを話せるんだろう。

この日、BAR IAPONIAでお話しくださったエピソードから、そのヒントを探してみます。

すべては、ガイドブックづくりからはじまった

オリエンタルランドに入社して半年後、東京ディズニーランドがオープン。

このとき正村さんは25歳。その30年後、当時の自分から未来の自分へ、という形で手紙を書いたことがあるそうです。そこにはこんな言葉が綴られていました。

「毎日仕事が楽しくて仕方ありません。たくさんの友だちに囲まれて幸せです…」

初仕事は、パークのガイドブック製作でした。

開園時のアトラクション数は28個。手元の資料は、英語の説明文章を簡単に日本語訳したもののみ。

「とてもじゃないけどガイドブックに使える文章じゃないんです。それを毎日毎晩、書き直す作業をしていました」

独特の用語や施設の名称をお客さんに覚えてもらうのもひと苦労です。

そのうちのひとつが、今ではすっかりおなじみとなった”アトラクション”という呼称。

「当時はアトラクションといったらショーのことで、乗り物というイメージはなかったんです」

「アトラクション=乗り物という意味を浸透させるために、ぼくが考えたのが、”ライドタイプのアトラクション”と”シアタータイプのアトラクション”という呼び方」

『スペース・マウンテン』や『イッツ・ア・スモールワールド』のように、乗り物に乗って楽しむものはライドタイプのアトラクション。

『ミッキーマウス・レビュー』(2009年にクローズ、現『ミッキーのフィルハーマジック』)のように座席に座って楽しむものはシアタータイプのアトラクション。


東京ディズニーリゾート公式サイトより

「40年経ってもぼくたちが作ったマップやガイドの原型がある。形は変わっても、自分たちが作ったものが残るっていうのはうれしい話です」

作ったものは都度、ディズニー本社からチェックを受けなくてはなりません。

「アメリカからチェックのひとたちがくるんですけど、彼らは『日本人なんて…』と思っているわけです」

なかなか同じ土俵でみてもらえず、屈辱感を味わったことも。

「でも、上司がガンガン攻めて行くひとだったので笑。ぼくもガンガン言うようにしたら、だんだん認めてもらえるようになって、快感に変わっていきました。ディズニーの本社に認められた、っていう、嬉しさがありましたね。ここでアメリカ的クリエイティブを学びました」

ちなみに、完成した初代ガイドブックの表紙をミッキーマウスとともに飾っている女性は、正村さんの同期。一緒にうつっている女の子は、撮影スタッフのお子さんです。

「ディズニーって言ったら世界的な有名ブランド。でも当時のぼくたちは、なるべくお金をかけないように、身内を使ってたんです。町のお祭りレベルですよね笑」

1983年4月15日。ついにオープンを迎えた東京ディズニーランドを目の前にして、正村さんの目には涙が浮かびます。

「このときは本当に嬉しかったです。自分が、”ど真ん中”にいるんだって感じました」

「オープン当初は、すぐなくなるなんて噂もあったんです。千葉県から土地を借りる契約がどうとかで。でも、ぼくは少しもそんな風に思わなかった」

オープン時の広告に載ったキャッチコピーは、「ワッ、夢の実物」。

「本当に、夢が現実になったんです。この素晴らしい場所を自分で歩いたら、『これは絶対になくならない。永遠に続く!』と思わずにいられませんでした」

ディズニーの”ドリームキーパー”として

ディズニーランドと共にあった20代の日。思い出深いエピソードをいくつか教えてもらいました。

そのうちひとつが、ミッキーマウスの生誕60周年記念で行った、有名雑誌の表紙ジャック。

「中でも面白かったのが、『ザテレビジョン』。表紙で有名人がレモンをもつのが印象的だったんで、それをぜひミッキーでやらせて欲しいと持ちかけたら、編集部の人たちが快く引き受けてくれたんです」

「感動したのが、ミッキーの目の中のストロボの写り込み。これね、ミッキーマウスの形になっているんですよ。このこだわりと、ミッキーを単なるキャラクターではなくてひとりの人格者として扱ってくれたのが、『本当にすげえな』って笑」


このときの『ザテレビジョン』の編集長と正村さんは、のちに上司と部下の関係に。ひとつの仕事が次につながっていく、という言葉に通じるエピソードです。

オリエンタルランドでは、正村さんにとっての”憧れの存在”との仕事も叶いました。

「ぼくは本当に、ジョージ・ルーカスが好きなんです。好きすぎて、”ジョージ”ってあだ名で呼んでもらってるくらい笑」

まずやって来たのが、『キャプテンEO』のオープン。ジョージ・ルーカスが製作総指揮をした、3Dシアターアトラクションです。

正村さんは、パンフレット製作を担当。表紙を飾ったのは主演のマイケル・ジャクソンでした。

「マイケルを表紙にして本を作るっていうのは、ディズニーだからできたことだと思うんだよね」

「でも、ひとつだけ印象に残ってることがあって。手塚治虫先生に言われたんだけど…」

えっ、今なんて?さらっと飛び出たお名前にびっくり。

漫画界の巨匠、手塚治虫先生はディズニーランドによく遊びにきていて、正村さんともお知り合いだったそう。なんてすごい話でしょうか…。

「手塚先生が、こう言うんです。『正村くん、なんでマイケルなの?ミッキーマウスじゃないとだめでしょう、そのうち人気がなくなるよ』って」

アトラクションオープン時の1980年代後半、マイケル・ジャクソンの人気はまさに飛ぶ鳥を落とす勢い。巨匠の意外な言葉に正村さんも困ったそうです。

ところが実際、キャプテンEOはその後クローズ。いくつかの代替わりを経て、今は『スティッチ・エンカウンター』というディズニーキャラクターが主体のアトラクションとなっています。

「今にすると、さすがだなと…手塚先生の言葉が心に染みています」

そしてついに、大好きなあの作品のアトラクションが、日本にもやってくることに。

「スターツアーズ。スター・ウォーズをモチーフにしたアトラクションなんですけど、それをどう宣伝をするのか、課の中でコンペになったんです」

「そこでぼくが出したアイディアは、簡単な話。『アトラクションをジョージ・ルーカスに作らせているんだから、CMもILM(※)に作らせなくちゃだめだ』っていうだけ」

※Industrial Light & Magic。ジョージ・ルーカスが設立した、ルーカスフィルムの一部門である特殊効果と視覚効果の制作会社。

「そしたらね、それが採用。まさかそんなことありえない!って思って。でも、ディズニーはクオリティ重視ですから、そういうことをちゃんとやるんですよ。それでぼく、サンフランシスコにあるルーカスフィルム(ILM)に行ったんです。感動しましたね」

自分の出した企画で、憧れのクリエイターと仕事をする…想像しただけで、鳥肌のたつ話です。当時、ルーカスとやり取りした際の資料はすべてファイルにまとめ、今でも大切にとっているのだそう。

ちなみに、そのCM、YouTubeで検索すると出てきます!

「今でもこうやって見られるんですよね。嬉しいよ」


ジョージ・ルーカスやスピルバーグのようなクリエイターを、ドリーム・キーパーズと呼びます。

「ウォルトの夢の継承者。あるとき、上司に言われたんです、『お前もそうなんだよ』って。『ウォルト・ディズニーのドリームキーパーズのひとりなんだよ』って」

自分も、人々に夢と感動を届ける一員なんだ。その言葉は青年だった正村さんの心に、深く刻まれたのでした。

次の舞台へ

見事、スター・ツアーズの大仕事をやり遂げた正村さん。それまでがむしゃらに取り組んできたディズニーランドの仕事ですが、ここでふと立ち止まるときが来ます。

「やっぱり、ロスになっちゃって。そのときにちょうど、角川がシティ情報誌出すから来ないかって言われたんです」

声をかけてきたのは、かつてミッキーの表紙ジャック企画で組んだ、『ザテレビジョン』の編集スタッフでした。

そうして、雑誌編集者としてのキャリアをスタート。その後の功績の数々は、もはやここでは語り尽くせません。

立ち上げた雑誌『東京ウォーカー』で巻き起こした、花火大会ブームに食べ放題ブーム…最初は鳴かず飛ばずだったという売上も、ついには発刊50万部の規模にまで到達。

その後もラジオ、企業広告、WEBメディアと様々な場で活躍した正村さんは、現在、意外なお仕事をしています。

「去年から、SOMPOジャパンの『いきガイド』で、イベントプランナーをやってます」

いきガイドは、シニア向けのコンサルティングサービス。三軒茶屋にある拠点、いきガイドステーションでは、シニアや地域の人が楽しめるイベントが月に数十回実施されています。

「ここでは、世田谷ウォーキングツーリズムっていうのを考えて。世田谷の中をみんなで歩こうよっていう。ライブやコンサートもやるし、みんなで集まろうっていうコンセプトでやってるんだ。これがね、楽しくって」

最近はまたちょっと、発想を変えた企画をしているんだよ…そう語る正村さんの、少年のように輝く目。

オープン前のディズニーランドのガイドブックを作ったとき。スター・ツアーズのCM製作のため、ルーカスフィルムを訪れたとき。『東京ウォーカー』の誌面を企画していたとき。

きっと、いつもその目は、同じきらめきに満ちていた。

「やっぱり、全部自分でやんないとつまんないなっていうのは、今も昔も一緒です」

時の流れに身を任せて…なんて、とんでもない。

いつでも全力で、心の動く先へ向かってきた。だから、これが心からの言葉なのだとわかりました。

仕事って、楽しい。

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