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モノを持つ意味。

何年か前あたりからミニマリズが浸透している。
かくいう自分もミニマリズ的思考は好きだ。というよりお片付け大好きな人なので、ものが整理されていたり、空間がすっきりすると達成感に満ちる。

一方でモノを持つのが好きで、多趣味(自転車、珈琲、カメラ、ガジェット、ギター、読書、筆記具。この前電動シェーバーに嫌気がさしてクラシックシェービングを始めた)である。だから、一見似たようなモノばかり集めて…と言われてしまいそうなモノたちでも、それを愛する人の気持ちには大いに共感できる。

そこで、今日はモノを持つ意味について話たい。

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いいモノを少なく持とう。
モノを持つと言っても、やたらめったら数を揃えようという話ではない。最近は、日本などでは百均が優秀すぎるので消耗品を中心に、「もういっそ、百均で揃えてしまった方が楽なのでは。」と思ったりもする。だが、このとき、モノはまだ、単なるモノにすぎない。
持つモノを減らすことによって、必然と質の高いモノを選ぶようになる。そうして洗練されたモノを持つことによって、自分もまた洗練されていく。モノに主管(コントロール)されていた自分が、徐々にモノを主管するようになってくる。モノによって自己が高められたのだ。

私がモノをたくさん持てないのは、全てのモノを可愛がれないからなのだが…

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モノとの授受作用。
上の話にあるように、人はモノによって変化する。つまりここでは、モノと人との関わりによって、モノや人はその本来の力以上のものを発揮するという話をしたい。

高級なモノ、誰かにプレゼントしてもらったモノ、長く使っているモノ、自分専用にオーダーメイドしたモノ、などなど。これらは、単なるモノから、思い出や愛情、創造性をも兼ね備えた、特別なモノへと昇華させれるのだ。

そういった道具は、持っているだけで、プラスの効果を生み出す。
例えば、使い込まれたペンは作家の創造性を掻き立てるように”働き”、研ぎ澄まされた包丁は料理人の手と一体化したかのように”動く”。自分の体に合わせて仕立てられた服は人を自信と余裕に満ちているかのように”見せ”、子どもがプレゼントしてくれた手袋は何よりも温かい。
モノは、僕らが思っている以上に奥が深い。

僕は写真を撮るのが好きである。
いつも、一眼レフを使って写真を撮り悦に浸るのが楽しみなのだが、知り合いにカメラを買うべきかを聞かれたら、「スマホで十分だと思う」とまず答える。高級な一眼レフをせっかく買っても重たくてただのインテリアになってしまうなら美味しいモノでも食べにいった方が幸せだと思う。
だが、一方でカメラを持っていないと得られないモノがある。いい画が撮れたときというのは、カメラとの授受作用がうまくいったときである。こちらが試行錯誤していると、カメラの方が教えてくれたり、カメラを持っているだけで日常が素敵な作品として写り込んでくる。休日カメラと目があってしまったらいい画が撮れるまで帰ってこられない。
スマホのいくつもある機能の一つとしてのカメラと、一眼レフとでは、できることは同じように見えても、モノからの働きかけ、モノと人との授け受けが違う。

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モノに特別な意味を持たせてやると生き生きと動き出す。それは、人が自分の存在価値、人生の意味に気づけたときの輝きとどこか似ているのかもしれない。

そう思いながら、今日もなんとか、百均で余計なモノを買うことを踏みとどまった。

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