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なぜみんな歌詞が下手なのか

 例えば、絵の価値を知らない子供を100人集めて、絵画展を開いたらどうなるだろう。

 その子供たちの投票をもって、そこに並べられた絵の価値を決めるとしたら、どんな絵が価値を持つだろう。

 この世界ではそんなことが起きている。

好きという魔物


 「好き」と「価値が高い」は違う。

 安い、値段も無い絵を好きになることはあるし、高額の絵を嫌いと思う事もあるだろう。それはなんら問題ない。問題なのは、自分がその絵を好きなのか、それとも価値が高いと思っているのか、その区別が出来ていないことだ。

 人はそれらを混同し、自分の好きな歌手の歌詞を普遍的に価値の高いものだと認識することが多い。

 しかし、良いものにはルールがある。何故良いのかという理由がある。そう言うと、「良いと思ったものが良いんだろ!」という声が聞こえてきそうだが、私はそうは思わない。それは「好き」の話であって、「価値」の話ではないんだ。

 例えば高価なヴァイオリンは、なぜ高いのだろうか。私はヴァイオリンには詳しくないが、その価値を決めているのは決して好き嫌いの話ではなく、音の重厚感や、音をより響かせる形状、木の質、そういった理由があるはずだ。

 歌詞にもそういった、価値を決めるルールがある。みんな気づいていないだけだ。それは描写の上手さ、語感の良さ、比喩、隠喩、バランス、さまざまな言語化が難しいルールがある。これらは良い作品に触れ、そのリテラシーを育むことでわかるようになる。良いヴァイオリンを日頃から聴いていれば安いヴァイオリンとの違いがわかってくるように、高い寿司を食べれば安い寿司の不味さに気づくように。

 まずはこの違いに目を向けることが必要だ。自分は今「好き」の話をしているのか、「価値」の話をしているのか。自分の感情はどちらなのか。

切り離して考えられない


 人の多くは、歌詞は歌詞、曲は曲、声は声、人は人、と切り離して考えられていない。好きな歌手の歌は良く聴こえ、曲を作った背景を知っていれば良い歌詞だと言い、好きなアニメの主題歌だから好きだと言う。それこそが、再三はなしている「好き」の話なのだ。好きは個人の主観の話で、客観的な価値の話ではない。すなわち、それらを名曲と言うのはおかしな話だ。名曲とは主観の話ではなく客観的な価値の高い物をさすからだ。小さい頃に母が歌ってくれた自作ソングを、クオリティ度外視で名曲と言うのはおかしな話だろう。何度も言うが、好きなのは構わない。

 例えば私は、CHAGE&ASKAやBUMP OF CHICKEN、RADWIMPS、松任谷由実、中島みゆきなどがここで言う価値が高い歌詞を書ける人間だと思うが、それら個人のことについてほとんど知らない。バンドのメンバーの名前も知らないし、経緯だとか人物像も知らない。関係無いからだ

 歌詞に価値があるかどうかとは一切関係がない。作者がクスリで捕まろうと、不倫しようとなんだろうと、歌詞は一文字も変わることがなく、曲はワンテンポも遅れることはない。

 人物についてはほとんど知らないが、好きな曲の歌詞ならばほぼ全部暗記している。もちろん1曲2曲の話ではなく、数十、数百の話だ。記憶力の問題ではない。むしろ記憶力は悪い。これは決して暗記しようとしたわけではなく、おそらく将棋の棋譜のようなものだ。素人が将棋の棋譜を暗記するのは恐ろしく難しいが、プロ棋士には容易い。この現象は、その一手の意味がわかっており、前後の文脈や関連性を認識しているから起こることだ。

 切り離して考えるということはこういうことであり、逆にこういった風に考えられないのであれば、少なからず「好き」の魔物に取り憑かれているのではないだろうか。

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