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キラキラした人生に憧れない

 自分たちの生活や状況を共有できるSNSの中では、もはや「#○○映え」なんて言葉を使う必要はなく、情報の中に「映え」の要素は必然になりつつある。
 さらに最近は当たり前になった映えに加え、充実している日常ばかりが映し出されている気がする。(私の周りだけ…?)

 そんなものばかり見ていると、自分の生活や人生ってなんて退屈でもったいないものだろうかと思えてくる。
 一人一人違う価値観があり、私は家族との時間や、時間に追われない生き方が好きだが、地元を離れてキラキラ輝く都会でイルミネーションやアフタヌーンティーを楽しみ、レジャー施設や海外に友達と行くのが好きな人もいる。
 もちろん自分で選んだ生き方でも、キラキラして楽しそうな他人の生き方をうらやましいと思うのは当然だろう。
 しかし、寝る前という私の一番幸せな時間の中で、他人のキラキラ人生が目に入ってしまえば、幸せな時間が台無しになってしまう。
 そんな気持ちになったとき、SNSは私にとって娯楽から厄介なものへと変身してしまう。

 そんな時は、「他人のキラキラを見て、自分の人生を卑下してしまうほど自分の人生はもったいないものだろうか」と考える。
 家族とも仲良く、月に1~2回も帰省している。相談のできる友達も少ないけどいる。短期離職をしたけど心を壊す前に自分のことを守れたし、しばらく暮らす貯金はある。
 私にとってこれらの物事は、海外旅行や友達との旅行、飲み会や充実した仕事と匹敵するくらい大切なことであり、憧れてかなえた仕事を捨ててでも守りたかったことだ。
 ただ、欲を言えば若いうちに海外旅行に行きたいし、働かずにモラトリアム人間でいたい。奨学金も借りたくなかったし、コロナで消え去った飲み会の数々を今からでも取り戻したい。
 それを実現するには、自分の体力や寝る時間を削らなければいけないし、どれだけ努力しても変えられないものもたくさんある。

 人生はバイキングみたいなもので、自分が何をどれくらい食べたいのか選んで食べていくように、何を軸にしてどのくらいそこに力を入れていくかを決めて行動していかなくてはいけない。
 例えば、他に食べたいものがあるから目の前のものを我慢したり、お皿に乗らないから二週目で持ってくると一度諦めることもある。タイミングが良ければ、出来立てのピザが食べられるが、後から来た人は冷めて硬くなったピザしか選べないときもある。自分は見つけられなかった料理を持ってくる人もいれば、お盆のようなプレートを手にしてたくさんの料理を効率よく堪能する人もいる。
 このように、人生も自分の選択や努力でどうにかなる部分もあれば、運や自分以外の要因で自分ではどうしようもない部分もある。時には用意されているレストラン会場が違ったり時間帯で料理内容がことなるように、そもそも自分の人生には選択肢にもならないようなできごとものもある。
(私はどれだけ努力しても、スポーツ選手になれないし、なろうとしたこともない。)

 だからこそ、SNSで見た他人のキラキラとした生き様と自分の生きざまを比べる必要はないし、言うまでもなく自分の選択と努力である人生を卑下する必要もない。
 バイキングで他の人のテーブルを覗き込んで、自分の食事の内容を残念だと思うことがないように、人生においても他人の選択や努力の結果を見て、自分がしてきた選択や努力を退屈でもったいないと思う必要はない。

 私はバイキングでいつも自分の大好きが詰まった食事をする。自分の人生もこのくらい大好きが詰まった人生にしてあげたい。

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