プロ野球初の球団歌を追う<後編>
作曲家・古関裕而の生涯をモチーフとするドラマ『エール』が制作され、同氏が手掛けた数々の楽曲が再び注目されている。とりわけスポーツ楽曲、野球関連では通称「六甲おろし」(『阪神タイガースの歌』)が出世作『紺碧の空』に続く初期の傑作とされ、プロ野球初の球団歌、あるいは現行12球団で初の球団歌とも言われている。しかし実際は、そのどちらも正確ではない。本稿は、歴史に埋もれた2つの球団歌に光を当てる──後編。
前編にてプロ野球初の球団歌を紹介した。それでは現行12球団で初の球団歌とは何か。通説の『阪神タイガースの歌』誕生過程までを追ってみよう。
古関裕而の出世作
東京六大学野球が隆盛を誇っていた昭和6年当時、早稲田大学は応援部の発案で新しい応援歌を作ろうとしていた。宿敵の慶應義塾大学に負け続けている中にあって、野球部を新しい応援歌で鼓舞しようと考えたのだ。
応援部の幹部・伊藤戊はさっそく動いた。歌詞は校内から募集し、西條八十らの選出により高等師範部3年・住治男の『紺碧の空』が選ばれた。続いて作曲者選びに取り掛かり、同郷で旧知の仲でもあったコロムビア所属の古関裕而に白羽の矢を立てた。無名の新人を登用することに難色を示す向きもあったが、伊藤は熱心に古関の実力を周囲に説いたのだった。
『紺碧の空』
作詞:住治男/作曲:古關裕而
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(1)紺碧の空仰ぐ日輪
光輝あまねき傳統のもと
すぐりし精鋭鬪志は燃えて
理想の王座を占むる者われ等
早稻田早稻田霸者霸者早稻田
(2)靑春の時望む榮光威力敵無き精華の誇
見よこの陣頭歡喜あふれて
理想の王座を占むる者われ等
早稻田早稻田霸者霸者早稻田
※歌詞は著作権消滅のパブリック・ドメイン
この新しい応援歌は、昭和6年6月13日の早慶1回戦で初披露された。初戦こそ早大は惜しくも敗れたが、続く2回戦で連敗を脱出。続く3回戦も勝利して観客は歓喜に沸いた。このことでコロムビアはレコード化を決定し、伊藤の甥・久男の歌唱でレコードを発売。古関の初ヒット作となる。
日米野球とプロ化の胎動
名声を高めた古関のもとに続いて舞い込んだ依頼は、読売新聞社の主催で開催される日米野球のテーマ曲だった。歌詞は作家・久米正雄の手により既に完成しており、『日米野球行進曲』と名付けられていた。
『日米野球行進曲』
作詞:久米正雄/作曲:古關裕而
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(1)すいと投げ込む速球の
目にも止まらぬ物すごさ
野末を走る稻妻の
まこと草葉をなぐと云ふ
來れ迎へん大リーグ
いざや迎へん大リーグ
(2)さつと振りたる一棍の
飛び行く球の物すごさ
雲をつらぬく烈日の
まこと光りを消すと云ふ
來れ迎へん大リーグ
いざや迎へん大リーグ
(3)海をへだつるかの國に
名だたる巨人みな來り
秋まだ去らぬ吾が庭に
突如嵐を呼ぶと云ふ
來れ迎へん大リーグ
いざや迎へん大リーグ
※歌詞は著作権消滅のパブリック・ドメイン
歌詞の完成を伝える記事
昭和6年9月8日(『讀賣新聞』朝刊より)
古関を“麒麟児”と称賛している
レコーディングを伝える記事
昭和6年10月4日(『讀賣新聞』朝刊より)
冊子『日米大野球戦』(非売品)と各試合の入場券
昭和6年11月(筆者蔵)
試合は日本勢の17戦全敗で幕を閉じた。しかし、本場大リーガーのプレーに日本選手たちは大いに刺激を受けた。そして来日軍が日本に蒔いたプロ化の種は、やがて確実に芽を出すこととなる──。
続く昭和9年、古関は東京日日新聞社(現・毎日新聞社)からの依頼により『都市対抗野球行進曲』を手掛けている。作詞・小島茂蔵、編曲・奥山貞吉、歌唱・中野忠晴の顔ぶれでレコードが吹き込まれ、発売された。
SP盤『都市對抗野球行進曲/野球をどり』
昭和9年8月(筆者蔵)
六大学野球、日米野球、そして都市対抗野球。次々に野球歌を成功させた古関のもとに昭和10年、設立準備中の職業野球団からも依頼が舞い込んだ。
『大阪タイガースの歌』の誕生
昭和9年12月に大日本東京野球倶楽部(巨人)が設立され、それが契機となって新聞社や鉄道会社を中心にプロ野球参入の機運が高まっていた。阪神電鉄もかねてから構想を持っていた折、読売新聞社からの声がけも後押しとなって昭和10年10月、大阪・中之島の雑居ビル内に設立準備事務所を設置。当初表札は掲げず、秘密裏にチーム編成を進めていた。
全国からの選手集めに奔走する中、並行して球団歌の作歌も進められた。作詞を詩人の佐藤惣之助に依頼。続いて作曲を、数々の野球歌で高い評価を得ていたコロムビアの古関に依頼したのだ。
結成間もない大阪タイガース
昭和11年
昭和10年12月10日、大阪タイガース(阪神)は誕生した。監督人事や選手集め、設立準備は当初難航。阪神電鉄内で設立稟議が通ったのは設立のわずか4日前のことだった。こうして翌年の3月25日、甲子園ホテルに名士200名あまりを招いて球団披露会が開かれた。球団歌が『大阪タイガースの歌』として初披露されたのもその席上であった。
『大阪タイガースの歌』
作詞:佐藤惣之助/作曲:古關裕而
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(1)六甲颪に颯爽と
蒼天翔ける日輪の
靑春の霸氣美しく
輝く我が名ぞ大阪タイガース
オウオウオウオウ大阪タイガース
フレフレフレフレ
(2)鬪志溌剌起つや今
熱血既に敵を衝く
獸王の意氣髙らかに
無敵の我等ぞ大阪タイガース
オウオウオウオウ大阪タイガース
フレフレフレフレ
(3)鐵腕强打幾千度び
鍛えてこゝに甲子園
勝利に燃ゆる榮冠は
輝く我等ぞ大阪タイガース
オウオウオウオウ大阪タイガース
フレフレフレフレ
※歌詞は著作権消滅のパブリック・ドメイン
歌は中野忠晴によって吹き込まれ、250枚のレコードが披露会の出席者に配られた。その後レコードは散逸し、コロムビアや球団にも残っていない幻のレコードとなった。戦後の再プレス盤も含め現存数はごく少なく、うち2枚は兵庫県西宮市の阪神タイガース史料館、および福島県福島市の古関裕而記念館に収蔵展示されている。
SP盤『大阪タイガースの歌/タイガース行進曲』(委託版)
戦後(筆者蔵)
ソノシート盤『大阪タイガースの歌』
戦後(筆者蔵)
昭和36年4月、球団名が阪神タイガースへ改称したことに伴い、球団歌もタイトルと歌詞が変更された。歌詞を何よりも重要視にする古関にとって、韻を踏んだリフレインが崩れることは、いささか残念だったようだ。
現行12球団で初の球団歌とは
昭和10年2月14日、大日本東京野球倶楽部の選手らを乗せた貨客船・秩父丸は横浜から一路アメリカ・サンフランシスコへ向けて出航した。野球の本場への武者修行、そして日米親善が目的だった。
出航から3日目、監督の三宅大輔は球団歌を作ることを思いついた。もう一人の監督・市岡忠男に相談すると、いい旋律があるという。それは仙台の通称「二高」(旧制第二高等学校)の校歌『天は東北山高く』だった。三宅はその旋律を耳にしながら、ほどなく歌詞を完成させた。これこそが、現行12球団で最古の球団による、初の球団歌が誕生した瞬間だった。
『(題名不詳)』
作詞:三宅大輔/作曲:楠美恩三郎
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若き血潮の高鳴りて
春鹿島立つこの誇り
朝日輝りそう旗の色
八重の汐路を乗り越えて
アメリカの野に咲き誇る
東都の桜君見ずや
※歌詞は著作権消滅のパブリック・ドメイン
さっそく三宅監督は選手らを集め、毎日一時間の歌唱練習を課した。ほどなく皆は暗唱できるようになり、初の球団歌は往路の船上で朗々と歌われたのだ。この遠征への膨らむ期待と不安。そんな思いを胸に秘めながら──。
そしてこの球団歌は、遠征先の在留邦人の前でも披露して大いに喜ばれたという。前編で紹介した、日本運動協会の球団歌『協會歌』が、異国の遠征地で歌われて同邦を感涙させたのと同様だった。
秩父丸船上の東京ジャイアンツ
昭和10年2月(個人蔵)
後列左から)永沢/倉/三宅/スタルヒン/水原/青柴/市岡/田部/沢村/堀尾/苅田/畑福
前列左から)内堀/津田/江口/二出川/矢島/新富/中山/山本
サンフランシスコに到着した東京ジャイアンツ
昭和10年2月(筆者蔵)
左から)二出川/山本/津田/矢島/田部/新富/江口/倉 /内堀/中山/苅田/水原/永沢 /沢村/青柴/堀尾/畑福 /スタルヒン
サンフランシスコに到着した一行は、“東京ジャイアンツ”と改名して北米大陸を転戦。総移動距離2万キロ余、110試合を75勝34敗1分の成績を残して7月14日に帰国。そして現行12球団で初、最古の球団歌は、半年限りの命を尽くして消えていった──。(完)
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【執筆】
萬象アカネ
【参考/協力】
『紺碧の空』伊藤久男・コロムビア合唱団/コロムビア(昭和6年)
『日米野球行進曲』コロムビア合唱団/コロムビア(昭和6年)
『都市対抗野球行進曲』中野忠晴/コロムビア(昭和9年)
『大阪タイガースの歌』中野忠晴/コロムビア(昭和11年)
『阪神タイガース 昭和のあゆみ』阪神タイガース(平成4年)
『東京ジャイアンツ北米大陸遠征記』永田陽一/東邦出版(平成19年)
『讀賣新聞』読売新聞社
【履歴】
公開:2020年5月28日
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