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プロ野球初の球団歌を追う<前編>

 作曲家・古関裕而の生涯をモチーフとするドラマ『エール』が制作され、同氏が手掛けた数々の楽曲が再び注目されている。とりわけスポーツ楽曲、野球関連では通称「六甲おろし」(『阪神タイガースの歌』)が出世作『紺碧の空』に続く初期の傑作とされ、プロ野球初の球団歌、あるいは現行12球団で初の球団歌とも言われている。しかし実際は、そのどちらも正確ではない。本稿は、歴史に埋もれた2つの球団歌に光を当てる──前編。

日本初のプロ野球団『日本運動協会』

 大正9年秋、早大野球部OBの河野安通志、押川清、橋戸信の3人が中心となり、プロ野球団の運営を主目的とする『合資会社日本運動協会』を設立。選手は公募し、集まった約200名の中から選考した。その間、協会は専用のグラウンド(通称「芝浦球場」)の造成、続いて浴室や食堂、娯楽室などを備えたクラブハウスを建設し、選手が野球に専念できる環境を整えた。当時隆盛を誇った六大学の運動部施設でも敵わない、先進的なものだった。
 施設は外部へも貸し出し、使用料収入を得ることで経営多角化も図った。年会費制で個人利用者を募ったのは、スポーツクラブの先駆けとも言える。

 採用された初代メンバーは14名。最年少は15歳の、まだあどけなさを残す若者たちだった。

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日本運動協会の初代メンバー
大正10年2月
(『記念寫眞帖』より)
後列左から)山本/小玉/大井手/原山/矢田/清水/篠崎/片岡
前列左から)小澤/中村/大賀/五所名/黒田/奥村

 クラブハウスは選手の合宿所として利用され、野球の鍛錬のみならず、簿記や英語、礼儀作法などを座学させた。教養は品格を生み、プロ野球に対する社会的地位が高まるという協会の狙いがあった。もとより教養は選手の引退後も一生役に立つと考えた。それが「協会精神」だった。

プロ野球初の球団歌

 ここに一冊のアルバムがある。協会が後年、設立から解散までを編纂して関係者に配布したものだ。『記念寫眞帖』と篆書体で箔押しされた革表紙を開くと、最初に現れるのが『協會歌』。全国から集った若者たちが、野球を職業にして時代を切り拓こうとする、これこそがプロ野球初の球団歌だ。

『協會歌』
作詞:不詳/作曲:不詳

(1)力秀デシ若人ガ
  遠ク西ヨリ東ヨリ
  淸キ使命ニ集リテ
  成リシ吾等ノ野球團 
  
(2)溢ル血潮吾ガ命
  鍊ヘシ吾ガ腕吾ガ力
  靑空仰グ紅顔
  希望ニ燃エテ輝ケリ

(3)榮アル男子吾ガ友ヨ
  勉メテ熄マヌ腕ニハ
  華麗シク人若ク
  勝利ノ鐘ハ高鳴ラン

  フレー協會、フレー協會
  協會協會フレー

※歌詞は著作権消滅のパブリック・ドメイン

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『協會歌』歌詞
(『記念寫眞帖』より)

 作歌は大正11年。作詞者や作曲者の記載はないが、元選手の片岡勝によると作詞は詩人の児玉花外によるものだという。児玉も押川らと同じ早大OBで、そのつながりで依頼があったものと思われる。作詞はほかに『明治大学校歌』などを手がけている。
 同じく元選手の原山芳三郎は後年、原稿用紙300ページを超える回顧録を書き遺したが、この球団歌についても言及している。大正12年6月18日、満州遠征に出発する東京駅のホームで初披露されたという。片岡も遠征先で宴席に招待された際、返礼としてよく合唱したと述懐する。
 作歌時期や歌詞が原山の回顧録では若干異なるが、協会としての公式編纂物という性質や刊行時期から、このアルバムがより正確であろう。

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『記念寫眞帖』
昭和4年12月(筆者蔵)

 この『協會歌』はどのような旋律だったのだろうか。現在のところ楽譜は見つかっておらず、レコードに吹き込まれたという記録もない。しかし当時は吹込所(現在のレコーディングスタジオ)で個人でもレコード盤を制作することができたため、この『協會歌』も同様に作られた可能性はある。

プロ野球勃興の期待と暗転

 やがて日本で2番目のプロ野球団『天勝野球団』が生まれた。プロ同士の対戦は3度行われ、何れも満場の観客を集めた。この天勝野球団を好敵手として各地を転戦し、プロ野球を浸透させようという構想も生まれただろう。水面下ではさらに複数の球団が胎動し、プロ野球の前途は明るいように思えた。しかし大正12年9月1日、関東地方は大地震に襲われる。

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日本運動協会
大正12年7月
(『記念寫眞帖』より)
N.A.A.=Nippon Athletic Association

 関東大震災──芝浦の埋立地にあった球場は、マウンド付近に深い亀裂が走り、液状化現象で泥水が噴出していた。さらには軍部が強制的に接収し、救援物資を山のように積んでしまった。協会は活動拠点を失い、社会の空気もとても野球どころではない。そして弟分であった天勝野球団も、いつしか自然消滅してしまっていた。

阪急電鉄への身売り~再出発

 大正13年1月、協会の河野は解散を決意し、記者会見を開いた。両眼に涙を浮かべたその姿からは、不本意で苦渋の決断だったことが伺えた。
 しかしそこに、複数の企業から救済の声がかかる。中でも実業家・小林一三はかねてから球団経営を構想しており、熱心に口説いた。「協会精神」とメンバーをそのまま継承するという条件を飲み、買収したのだった。協会は関西へ拠点を移し、翌月から『宝塚運動協会』(通称「宝塚協会」)として再出発することとなる。

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吉岡重三郎と小林一三
(『記念寫眞帖』より)

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宝塚運動協会
大正14年6月
(『記念寫眞帖』より)

協会のその後

 強力な後ろ盾を得たはずの協会だったが、宝塚での命脈はわずか5年だった。新たな好敵手となっていた大毎野球団が解散し、一番の人気カードを失ってしまう。そして天勝野球団以降、新たなプロ野球団も現れなかった。折しも時代は世界恐慌に突入し、大会社の財力を以っても維持継続は困難だった。昭和4年7月31日を最期に、日本初のプロ野球団は潰えたのである。

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宝塚運動協会『最后ノ紀年寫眞
昭和4年7月(『記念寫眞帖』より)

後列左から)池田/大貫/渡邊/孫/大井手/山口/原口
中列左から)片岡/風間/押川/吉岡/河野/堀/小玉
前列左から)成瀬/川崎/尾柳/香川/村上/富塚

 球団結成時に14名いたメンバーで、最期まで在籍した選手は清水、小玉、大井手、片岡の4名だった。河野は解散式で次のような感想を述べている。

運動協會は解散となりました。
芝浦時代から寶塚時代を通じて十年閒に面白い事もあり苦勞もありました、然し協會が野球團体であると同時に精神團体であつた事は、よし世閒の人は認めてくれなくとも自分は滿足です。
單なる野球團体ならば解散と同時に消滅して何物も殘らないであろうが私共の團体は野球の團体としては消滅しても精神の團体としては自然殘在します、之が即ち芝寶會であります選手は朝鮮に滿州に其の他各地に散つて平素顏を見合はさなくともお互いの心はしつくり結びついて離れません協會精神と云ふ言葉が何時の閒にか生まれてゐる私共は職業こそ色々と變れ、將來此の精神を以つて終始する事が出來ます精神なき野球團体として殘在せんよりは野球としての團体は消滅するも精神に生きる事こそ人閒としての道でありませう。

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河野安通志『感想』
(『記念寫眞帖』より)

 河野と押川はその後、名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)、後楽園イーグルスおよび後楽園スタヂアム(現・東京ドーム)の創立などに携わり、プロ野球への情熱を燃やし続けた。初代メンバーの一人、山本栄一郎も大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)の創立に参加している。「協会精神」は現在に続くプロ野球の礎となったのだ。

 大正9年の協会設立からちょうど100年目の今年、日本のプロ野球はコロナ禍という難局に直面している。先人が震災を乗り越え、最後まで「協会精神」を守り抜いたように、我々も強い意志と覚悟を持ってこれを克服しなければならない。(後編に続く)

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【文責】
萬象アカネ
【参考/協力】
『記念寫眞帖』堀勝治・片岡勝/宝塚運動協会(昭和4年)
もうひとつのプロ野球』佐藤光房/朝日新聞社(昭和61年)
異端の球譜』大平昌秀/サワズ出版(平成4年)
『運動界』野球界社
『朝日新聞』朝日新聞社
『讀賣新聞』読売新聞社
【履歴】
公開:2020年5月15日
更新:2020年5月27日

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