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やっかみ(仮)の代弁

家で歌うとか踊るとかする。なんだったら、「歌おう」「踊ろう」という呼びかけ、メッセージとして発信する。メッセージにしたつもりがなくても、メッセージ、「意思」だと受け取られることもあるだろう。

そこらじゅうに、「家では踊れないし歌えない」という人がいる。自分の家はそんな環境じゃないよということかもしれない。騒音を嫌う人が、壁や床・天井の隔たりひとつの向こうに住んでいる、という部屋に住んでいる人もいるかもしれない。

そういう人のことを思うと、「歌おう」「踊ろう」というメッセージを発することを躊躇したくなる。あらゆる類の「おれは歌えるぞ、踊れるぞ」という露出も同様だ。アピールするのは、もってのほかかもしれない。

確かに「自分にはこれができる、可能である」というのをわざわざ言うと、それが願ってもできない人のやっかみの種になるかもしれない。

「できる」「可能な境遇にある」ことを、わざわざ言う(発信する)までもない。ただ、それを、黙してすればいい。それができる人に家族や同居人がいるのなら、その行為はその限られた人たちの目にとまるかもしれない。そのことは仕方ないし、何ら問題がない場合も多いだろう。例外もあるかもしれないが。

唐突だが、食糧が欲しいのに足りていない人がいる。それは、現在のあなたや私でないかもしれないし、未来のあなたや私とも限らない。

だからといって私は、現在可能な食事をやめはしない。

・私が家で食事すること
・私が、欲しくても食糧がない人の目の届くところにわざわざ「出向いて行って」、自分が確保している食べ物を自分の口に運ぶこと

この二つは、私が食べ物を摂るという点では似ているが、ぜんぜん別のことである。

例えば、インターネットは、いろんな境遇の人の目に届く。違う言い方をすると、どんな境遇の人が見ているかわからない。

それこそ、「今日はいい天気ですね」のひとことにだって、「こっちは暴風雨に怯えているのに能天気だな!」と反応する人があってもおかしくない。

危険な風雨が暴れ回る地域にいる人のことを思って、のどかな陽光の差す地域にいる人が、散歩を控える必要はない。ただ、暴風雨の地域の人に届くくらいに「謳歌」してしまうと、批判が響いてくるかもしれない。散歩がしたいのなら散歩をすればよくて、散歩していることを大声で歌い歩く必要はない。それをしたい人がほんとうにしたいのは「散歩」ではないのかもしれない。

好天と悪天の地域差は喩えだけれど、インターネットは、そうした境遇差を飛び越えて両者をつなぐ可能性がある。

ところで、インターネットを見られるのは、インターネットを使える環境にいる人だ。その環境がない人は、インターネットの書き込みを見ることができない。そもそも、インターネット上での発信の存在を認知することができないはずだ。それなのに、たとえば、「インターネットをパソコンやスマホで見ている人」の姿を見て、「いいなぁ、パソコンやスマホでネットが見られて」と思う人がいる可能性は考えられる。

私は、オンラインとオフラインという概念を、ネットの普及以降はっきりと自覚するようになった。けれど、人間が身体性のすべてを手放す未来は、私の想像しうる限り、当分来なさそうだ。オンラインも、広義のオフラインなのかもしれない。

「生きています!」のメッセージを、死者はやっかむことができない。そもそもメッセージを認知できない。生きているけれど、メッセージを発したり受け取って認知したりできない人というのもあるかもしれない。たとえば、生命維持装置につながれていて無意識状態にある人だ。

そういう人がいるのだから、「生きています!」なんてメッセージをわざわざ言うもんじゃない、と主張する人が現れないとも限らない。(確かにわざわざ言うことでもない。例外もあるだろうが。)でも、それは(たとえばだが)「生命維持装置につながれた無意識の人」自身によるやっかみではない。

当事者外の人の(勝手な想像による)「代弁」に出合う機会がひと頃より増えたかなと思う。

私もつい、勝手な想像をしがちである。そのかたわら、飯を食う。

お読みいただき、ありがとうございました。

青沼詩郎

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