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苦悩と思考は別物

食事をするとき、つい、一点を見つめ、黙って咀嚼をしてしまいます。考えてしまうのです。悩んでいることを、その解決の答えを、考えてしまうのです。その様子を、いつも妻に指摘されます。「どっか行ってるよ」と。行き先を訊かれることもあって、その時はそれについて話します。ただ単にぼーっとしているだけのこともあるのですけれど。家族のみんながいる食卓で、そんなふうになりがちな私。夫がそんなだったら、嫌かもなぁ。妻に申し訳ないなとも思うのですけれど、つい考えてしまうのですよね。あごを動かすと、一緒に頭が刺激されるみたいなんです。と、根拠のない言い訳をしてしまう。本当に反省しているのか…。

ほどよい運動をしているときなんかも、よく考えがめぐります。ウォーキングやジョギング、サイクリング中などです。お風呂の最中にもそういうことが多いです。血流と関係があるんでしょうか。からだのあらゆるところに、あらゆるものを運ぶのが体液です。「思考」はあたまの中の「信号」だというのが私の抱くイメージですが、体液と信号も相関があるのかもしれません。そもそも、「思考を運ぶのは信号」というのが大まちがいかもしれませんけれど。

寝ながら考えればいっか、なんてトンデモないことを思って私は就寝を決意することもあります。就寝に決意なんているのでしょうか? おおげさすぎる気もします。でも、あなたもきっと、「寝よ」(命令形ではなく、意思の「寝よう」です)と思って寝ることありますよね。「いつの間にか寝入ってしまった」「考えもなしに寝た」パターンもあるかもしれませんけれど。

「寝よう」は、終わりの決断です。もちろん、明日また続きをやれます、明日さえあれば。意思と関係なく終わりが来てしまうのが、「寝入ってしまったパターン」でしょうか。自分の意思とは別に、外的な要因でものごとに終わりがくることもあります。

終わりにしたのが自分の意思だろうが外的な要因であろうが、続けるべきだと思うことは、そう決めてふたたび取り組み始めることができます。「決める」なんて一瞬はそもそもプロセスとして勘定されないことも多いかもしれません。すでに、やっている。たくさんの選択と決断が、過去のすべてです。すべての行動、すべての瞬間が、言うまでもなく選択と決断のたまもの。

「考えよう」という決断もあるかもしれません。でも、考えても、何かに作用し、自分以外の人やモノや環境に何かしらの変化を与えなければ、何も変わりません。何かと考え込みがちな私としては「考える」の肩を持ちたい気持ちがありますが、そんな気持ちはゴミの日に出してしまって良さそうです。私は、「考える」と「悩む」を混同しているのか。

決めかねるいくつかの選択肢が浮かんで、選べないでいるままに、あまりに多くの時間を浪費しがちな自分を思います。「悩み、浪費する」というプロセスなしに、「やる」ことでよりよい答えが早く見つかるでしょうに。実行をよりよいものにするのは、実行なのでしょう。もちろん、現実的に比較して取捨選択するための情報収集は必要かもしれません。ですが、情報を集めることと、悩むのに時間を費やすことは全く別です。

答えの改善に、きりはなさそうです。だから、どこかで終わりにするしかない。また始めればいいのに、終わるのをためらう私がいます。寝ると決めたら寝る。食うと決めたら食う。「悩む」と決めたおぼえもないのに、悩んでばかりいる私は…。

軽率で無思慮な行動を戒める意味では、「きちんと考えたうえで答えを出し、それに向かって行動する」のを重んじるべきでしょう。でも、「今は、悩もう」なんて答えを、私はいつ出したのか? 水に流したかのように、何も残らず、なかったことになるもののために時間を差し出す決断を、あなたはいつしたのか? 今の私への戒めです。

お読みいただき、ありがとうございました。

青沼詩郎

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