目で舌で喉で胃で腸で尻で
何か事実が発生したとして、いつでもその事実をすぐに受け入れられるとも限りません。それが事実かどうかを、じぶんが納得する方法で確認しないことには受け入れられないという気持ちもわかります、私には、ええ、なんとなくですけれど。
それがたとえばスポーツの勝ち負けだったとして、その試合に参加したある選手だったとして、たとえば試合の最中のどこかに審判のまちがった判断が含まれていると考えているといった場合、敗戦という事実を受け入れるのには抵抗心が芽生えるかもしれません。あの審判の判断は間違っていた、だからこの敗戦は事実ではない、という道理です。でもそれだったら、試合の進め方、ルールに乗っ取っているかの判断を審判がおこなうというやり方を揺さぶらないといけなくなるんじゃないかなと、同時に思います。(審判のことはたとえであって、それ以外にもいろいろ)
まぁ、そう、いろんな思いが芽生えるであろう事実が生まれてから、その事実をのみこんでみんなでかみしめる、味わう、認め合うという場を持とうという場合、そのタイミングがあまりにも、その事実が発生してから間がなさすぎるというのも、確かにある人にとっては受け入れがたいこともあるのじゃないかなぁとは思います。たとえがひどいですが、ある人が亡くなったとして、それがいまの日本だったとしたらそのうち火葬するのが大半だと思いますが、たとえばですが(重ねがさね)、一般人の私の目からみてもああ、たった今亡くなったなと思える人が目の前にいて、それを今しがた、専門家である医師が死の三兆候を認めて「ほんとうに××日××時××分、この人は亡くなりました」となったのち、10分とか15分とかですぐには火葬しませんよね(しないし、できない)。たとえがひどくてすみません。ただ単に、私も、じぶんの納得のいく方法で確かめねば動けないような重い重い腰の持ち主であることを自覚しているので、そういう、それが事実かどうかをじぶんの納得する方法で確かめなけりゃその場にいてもたってもいられないようなときってあるのじゃないかということを、ただなんとなく身にしみて思っているというだけのことなのですが。
何かの事実をつくってしまったのが自分自身であるときもあって、そんなときほど、そのときの自分の姿がどんなものかを周りの人から見たように認識するのは難しいと思います。外野にいる人からはその姿がよく見えて、(距離があるがために)安全なところからあれこれ言う者が現れもする。でも、当事者であるそのときの自分の心と、時間や距離を置いて振り返ってみたときの両方の事実をもってはじめて、両目でみたときのような立体的な事実が浮かび上がるのじゃないかなと私は思います。
ことに私のような重い腰の持ち主は、そのことをもってして初めて理解するといいますか、納得するようなところがあります。
お読みいただき、ありがとうございました。
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