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Win-Win好き

頻繁に接しているものを指して、私は「自分はそれが好きなのだ」と表現したり、納得したつもりになったりしがちです。でも、好きってなんなんだろうと思うと、いろいろあるような気もするし、もっと単純な気もします。そう、とにかく、「単に、頻繁に接している」ということでしか説明できません。それでいいような気もします。

なんで頻繁にそれに接しているのかと問えば、何かと理由をつけることができそうです。例えばそう…「便利だから」。あれ? これって、「好き」とだいぶずれていやしないか? そう、ずれていそうです。それは「好き」というより、利用しているという感じです。

以外とこの「好き」と「利用する」の境目って、あいまいにしている場合が多いのかもしれません。でも、本当は「好き」というよりも「利用している」だけだったという顛末が、なにも悪だとは思いません。私が身の周りのものやコトや人と築く関係のほとんどが、利用し、利用される関係なのだという仮説を思います。もちろん、そのどちらでもないものもあるでしょうし、グレーゾーンに位置する物事がたくさんあると思います。はっきりと白か黒かのみに分類するには無理があります。

恋愛における「好き」が、「性的欲求を満たし合う仲と、承認欲求を満たし合う仲が適当なバランスでミックスされたもの」なんじゃないかという仮説を持ってみます。(ちょっと斜に構えつつ、あえて)「美談」好きしそうな見地からいうと、「おいおい、ちょっと待ってくれ。恋愛の好きはそんなゲンキンなもんじゃないだろう」とでも制したくなるかもしれません。確かに、恋愛における「好き」をこれっぽっちも言い切った論理ではないでしょう。ただ、そういう見方もあるはずです。そう思っただけなのです。

幼い子どもにも、好き・嫌いのようなものが見られます。積極的に、頻繁に「接しにいく」ものと、むしろ意図的に避けたり遠ざけたりしようとするものがあるようです。子どもは、自分が現在の環境に及ぼす影響が未来にどうつながるのか、その想像をせずに現在を楽しむ傾向があります。例えば、おうちの壁紙にらくがきしちゃう。それをしちゃうと、快く思わない家の人がいるかもしれない。その人が、たいへんな思いをしてらくがきを消したり、お金や手間をかけて修繕したりするはめになるかもしれない。もちろん、「あっはっは、これは傑作だ」と大喜びして、落書きのされた壁紙をそのままにする親がいたっておかしくないわけですけれど、そうした顛末までを想像して子どもが落書きを楽しむでしょうか? もっと短絡的にといいますか、短い時空のスパンでその瞬間を楽しむのが幼児の傾向なんじゃないかなと思う私がいます。もちろん、楽しい絵を描いてみせて、よろこぶおかあさんやおとうさんの顔を見よう! と思って絵を描くのかもしれません、そうした未来を子どもが想像する可能性を私は肯定しますが、おそらく、「でもやっぱり困るからね」といって、もとの環境に戻すために大人がかける「手間ひま」についてまではあまり想像しないのではないかと思います。ほかにも、ものを壊してまわっちゃうとか、テッシュやトイレットペーパーを出しまくって破りまくって部屋をいっぱいにしちゃう、とかね。

そういう子どもが、たとえば、おかあさんだとかおとうさんのことを「好き」だとしたら、それはなぜか? 安心して食べられる、寝られる環境を守って、トイレもお風呂も身支度もあらゆる生活の面倒もみてくれるから? ただ単に、ぎゅうっと抱きつくと、大きくてあったかくて気持ちよくて安心するから? こういうのを「結局、頻繁に利用している関係だろう」なんて表現すると「この冷血漢!」とでも言われるのでしょうか。うん、確かに、ドライな冷たい感じと「好き」という言葉が連想させるイメージは、だいぶ違います。

「利用する」ということに過度にマイナスなイメージを付しがちなのだ…とも同時に思います。(利用する、最高じゃないか!)いつも利用し合っている輪に、幸福度がついてまわるのじゃないかと…。

お読みいただき、ありがとうございました。

青沼詩郎

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