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万が一、は結構ある。

10代くらいの頃に、宝くじを遊びで1枚買ったことがあります。買った当時の記憶はほとんどありませんが、確か買った事実があったなと。ですので、買ったことで、「当たる可能性がなくもない」などと気持ちがふわふわしたとか上を向いたとか、そういう記憶もほとんどないのです。「10枚買えば絶対に1枚(300円)当たる」と聞いて、本当に買ってみようという気になったのだったかな。300円で買って、仮に300円当たったからといってなんなのだと思わなくもありません。当時の私が何を考えていたのかは、まったく覚えていません。

あることを「事実にしたい」とき、その事実をつくることが、その達成になりえます。で、「宝くじに当たる」というのを事実にしたい場合、宝くじを買わないとそれを事実にすることはできません。(もらう、もあるかもしれませんが。)で、この場合は、自分の努力で当選の可能性を左右することはできません。もちろん、たくさんのお金を費やして、より多くのくじを買えば当選の可能性は高まります。ただ、1枚のくじが秘めた「当たるポテンシャル」に違いは生じえません。

「何かのプロになりたい」という場合、たとえば、「自分の何かの提供の見返りにお金をいただくこと」を仮にプロの定義だとして、「じぶんのしたことの見返りにお金をいただく」という事実をどんどんつくっていけばいいわけです。その事実の積み重ねこそが、その人をその仕事における「プロ」にしてくれるでしょう。もちろん、プロの定義を「その仕事のみで生活にかかるすべてのお金を稼ぎ出していること」などとした場合、そのハードルはいくぶん高まるかもわかりませんけれど。

いきなり、自分の供するサービスや商品をひとつあたり「10万円」で売るのが無理だとしたら、もっと低い値段からはじめて、だんだん単価を高くしていく方法があるでしょう。もちろん、順調に単価を高めていけるかどうかなんてことは、場合によるでしょうから、すべてのケースでうまく行くか知りません。人が語るケースって、「うまくいったケース」である場合が多いと思います。ですから、「ノウハウ」がすぐ流通します。「すべてのノウハウ」は、中古なのです。うまくいかなかったケースは、その多くが語られないでしょう。友達とのお茶の最中に登場するという機会くらいならば、あるかもしれません。

ところで、宝くじに当たると、いろんなところから人が寄ってきたり声がかかったりするので、「むやみやたらに口外しないでくださいね」なんて類いの一連の指南を記載した冊子がもらえる! という都市伝説(?)を耳にしたことがあります。「すぐに仕事を辞めたりとかしないように」などとも書いてあるのだとか。

宝くじを買って、当てて、もらえたお金で生活している人がいたとしたら、その人は、「プロの宝くじバイヤー」ということになるでしょうか? その人の仕事はつまり、「宝くじを買うこと」。たくさん購入資金を用意して、一枚でも多くの宝くじを購入すれば、それだけ当たる確率は高まります。ですが、その費用すべて(いえ、10枚に1枚は300円が返ってくるから、9割?)が無駄になる可能性もあります(むしろその可能性が高い?)。「プロの宝くじバイヤー」は、だいぶ難がありそうです。なりたいとも思えません。

ぜんぜん実現の可能性がなさそうだが、それでいて考慮すべきことを指して、「万が一…」などと前置きしてつづけることがあります。ですが、「万が一」は結構起きるのですね。たとえば、私の住む自治体には約20万人の居住者がいます。その範囲で「万が一」を拾ったとしても、20人いることになります。組織や集団とみなすのに十分な人数に思えます。1億人を抱える国の「万が一」でしたら、10000人ですね。これを、「結構いる」とみるか、あくまで「レアケース」と見るか? 私には、「だいぶいる」ように見えます。「万が一」は、「起こらなそうなことの前置きに使いがち」な割には、「だいぶ起こりやすい」のかもしれません。私がこの表現を使う際には、「億が一」くらいに直した方が、よりニュアンスが正確になるのかも? あるいは、「万が一」を使う基準を、「結構、現実的に起こるぞと思えるとき」に改めるかですかね。

お読みいただき、ありがとうございました。

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