今日を表明しよう
・わかったつもり
すぐ、わかったつもりになってしまいます。というか、わかろうとしない、突っぱねる、除外する、排除する、そんな態度を取りがちです。それはいまの自分には必要ない、私は誇り高い一個の人間だから、といった具合に。「私」とやらは、いったいどれだけ偉いというの? これっぽっちも偉いことなんてないし、人様の役に立つようなすごい発明をしたのでもないのに偉ぶって、「ふうん、それで?(完成度の高い私には必要ないよ)」なんて、驕ってしまう。そんなことが私にはあるように思います。
・きょうみなかったもの ばかにしていたもの
ところがどっこい(昭和?)、私も歳をとったのか、時間の経過という洗礼を受けたのか、かつてはばかにしたり、突っぱねたり、除外したり排除したりしていたものの価値をよく認めるようになったと感じているこの頃です。馬鹿になったのか、賢くなったのか、よくわかりません。ばかとか賢いとかで測ろうとするのが愚かなのかもしれませんね。そう、興味のなかったもの、関心を寄せていなかったものには、必ずといっていいほど、「未知」があります。そこには、いまの自分にある長所や短所を知るヒントがきっと詰まっています。で、(いままでの私よ、)これはいいぞ、もっとやれ! ということだったり、おや、やっぱりこれはよくないな、姿勢や態度を改めねばいかん…といったことが、関心を寄せていなかった物事を知る前よりもずっとわかるようになっているのです。
・大人の集まりに自分が参加するなんて思いもしなかった
大人たちの集まる場に参加するということが、数年前の自分よりも増えました。それは、私が、すすんでそういう場に顔を出すことを選んでいるからにほかなりません。かつての私だったら、「ふうん、オトナだねぇ(そんな場、つまらない。私には必要ない)」といった具合に遠ざけていたような場や機会たちです。先に述べた「大人」というのは、「これまでは関心を寄せてこなかったことにこそ価値がある可能性が高い」ということを、胸で、肌で、頭で体で理解した人たち、といったニュアンスです。いえ、それで表しきれている気もしないのですけれど、そんな感じ。学びに積極的で、自分にないものを吸収しようとする姿勢を持った人たちです。「変わる」ことに価値を感じる人たちです。一方で、そんな人たちのことを、「自分を貫けないなんてかっこわるい。自分の外側に影響されて自分をぶれさせるなんて愚かだ」といった具合に軽蔑するかのような表現が、二番目に出てくる、かつての私がいう「オトナ」。そんな「かつての私」は、きっと、「こども」の心を持っているとか未満で、「コドモ」的であり、もっと言えば「ガキ」だったなぁという感じです。そんなこと言えるようになったなんて、私は「大人」になったのか、かつての私が批判した「オトナ」なのか、それ未満でいまだに「コドモ」であり「ガキ」なのか…。
・人が価値をすでに感じているところに自分の気持ちを寄せる気になれない じぶんでみつけないとだめな気がする
これまで自分が関心を寄せてこなかった、もっと言えば「無視してきた」ようなことにこそ、いまの自分にとっての師匠となりえる存在が隠れている、というのは全力で肯定したうえで、それでいてなのですが、その「師匠となりうる対象」は、「自分から見つけるべき」だと全霊で思います。世間の関心を集めているものがあったとして、「世間の関心を集めていること」を理由に自分の関心をそこに向ける気になれない私自身を擁護する姿勢の表れかもしれないのですけれど、それを認めたうえでも、やはり「自分で見つけなきゃね」と思います。これまで関心を寄せてこなかったものが気になり始めた時点で、それはすでに「関心のあるもの」に昇華しています。それは、自分の変化の認知と同時に起こる発見かもしれません。かつての自分と変わったことがある、そのことに気付くことこそが、同時に関心の対象の拡散を示しているように思うのです。
・かつての先輩たちの理解できなかった行動を、じぶんがとるようになっている
私は演奏や歌唱をする活動をずっとやってきているのですが、音楽の先輩たちが、世界中のあらゆる音楽を聴いて、知識に長けまくっているさまを見て「ふうん。すごいと思うよ(じぶんはそうなろうと思わないけどね。ほんとうに「いいと思えるもの」を絞れてないんじゃないの? 芯が、「自分」がないんじゃぁないの?)」なんて、かつての私は「小馬鹿」にする気持ちを持っていたように思います。でも、そんな私のほうこそが、馬鹿だったように思います。いえ、馬鹿といいますか、単に無知だったなぁと思います。自分が持つ「批判者ぶる馬鹿としての経験」を認知したことで、そうした「若さ」さえも、我がことのように可愛いと思えるようになりました。だって、現在の私って、世界じゅうのあちこちのいろんな種類の音楽を聴いて知識を広げることを、とってもいいことだと考えてモリモリ実践しているのですから。(アハハ、恥ずかしい)
・「先生」は、しろうとの作品にだって、絶対にすてきなところを見つけてみせる
なにかの師匠になるような人って、決して師匠ぶったりしていません。その必要はまったくない。いつも、自分から何かを見つけに行っている人なんじゃないでしょうか。で、自分自身の変化にたくさん気付いている。たくさんの「かつての私」を知っている。たくさんの過去を通ってきている。だから、いろんな人の考えること・提示していることを理解したり共感したりする力に長けている。だって、そのいずれにも「かつての自分」を重ねて推し測るだけの経験を持っているのですものね。「経験」を「尺」だとか「ものさし」だとか言い換えてもいいかもしれません。参照するための道具を持っているというくらいのことです。道具は、ことを成す役に立ってくれます。もちろん、道具がすべてなんかじゃない。むしろ、道具に引っ張られたら負けです。新しい私になれなくなるから。過去の自分にとらわれたり引っ張られたりして、自由を失うのは賢明じゃないと思います。
・みんな「持っている」。それを、形式に寄せる技術があるかないか、それだけ
「思考」をみんなが持っています。「感性」もあるでしょう。それらを表明したり、表現したりする際に、いろんなテクニックや「道具」が役に立ってくれます。いい師匠たちは、道具やテクニックが豊富でなくても、一人ひとりが持っている「思考」や「感性」をきちんと掬います。道具やテクニックがないがために「誰にでも伝わりやすい姿かたち」になっていない表出でも、そこに在る「思考」「感じたこと」をちゃんと見つけられるのです。
そんな人間に、私もなりたい。
お読みいただき、ありがとうございました。
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