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時は、規模なり。

私はこの頃、家にいる時間が長くなりました。そのように自分でさしむけたところもありますし、私を含んだ社会がそのような方向に流れているところもあると思います。家で過ごす時間が長くなり、時間について考える時間も増えたかもしれませんし、時間について考える視点も増えたかもしれません。

時は金なりということばがあります。私はあまり口にしたり記したりはしませんが、よく接する機会のあることばかもしれません。確かに、時間をつかって何かをし、それと引き換えにお金を得ることができます。これをうまくやると、すごく小さな時間で大量のお金を得ることもできるみたいです。(私には成功例がありません)

でも、得たお金で時間を買うことはできません。もちろん、自分の手でしたかもしれない家事や育児や労働を、お金と引き換えに他者にやってもらうことで他のことにつかえる時間を確保することはできるでしょう。それを、時間を買うと表現すれば、それは確かにそうかもしれません。でも、だからといって、80年が寿命のところを120年は生きられません(国内最高齢の人が117歳だとか聞いた覚えもありますがそれはさておき…)。家事や育児や労働にかける時間を手放して、ある人がそれ以外に使える80年分相当の自由な(?)時間を、お金で120年分相当に増やす、みたいなことは、とらえようによっては可能だといえそうです。

でも、他の人のすごす時間の流れに・他の人と共通の時刻のうちに、40年分の「嵩増し」ができるわけじゃありません。他の人が11時10分を過ごしていたら、やっぱり私も11時10分を過ごします。(外国は時差があるよという話はここで置いておきます。)他の人の時刻を11時10分で止めておいて、私だけ、例えばお金をつかって30分間の自由時間を挿入しよう、というのはできないという話です。その30分を過ごしたのち、ふたたび他者と共通の11時10分からつづきを始めよう、というのはできません。

他の人よりも、何倍も多くのことをパパパパピピピ! と思考(そして行動)していたら、その人はまるで他の人よりも多くの時間を過ごしているみたいだよね、とも思います。確かに、そうとらえることもできそうです。私の中の一人が思う、ちょっと嫌味な私の考えることです。たくさん思考できる人が勝者であり、等級をつけて格上とする意図があるのだとしたら、上から目線っぽくて嫌味だし、なんか違うんじゃない? と言ってやりたくもなります。

でも実際、ちょっとの時間でたくさんのお金を得るのに成功する人と、そうでない人がいると思います。みんながみんな、ちょっとの時間でたくさんのお金を得るのに成功するのはありえません。それに成功するちょっとの人があって、それ以外の人がたくさんあるのが現実です。あなたも変われるかもよ、成功者になれるかもよということばに、確かに嘘はないのかもしれません。でも、その実際のところは、あなたも現在成功している一握りの誰かのうち一人をはじき出してそこにもぐりこみさえすれば、より多くの人から搾取する側になれるよというのが、ある意味親切なもの言いかもしれないと思います。競争ですね。

大量のものがあっても、いっぺんに把握できる範囲が限られます。視点を移せば、その把握も可能になるかもしれません。距離をおけばいいのです。ですが、変化を察知できる最小単位にも限界があります。離れて見るほどに、そこで起こる変化も小さくしか見えなくなってしまいます。小さくでも見えればまだよくて、まったく変化や出入りに気付けなくなるかもしれません。目でとらえる感覚に頼って、「目に見える・目に見えない」なんて表現をよくします。察知・感知・認知、などと置き換えてもいいでしょう。

時間について私が思うひとつの視点を言いあらわせば、時は距離なり、です。いえ、距離といいますか、規模、かもしれません。「時は、規模なり」です。

お読みいただき、ありがとうございました。

青沼詩郎

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