『「帝国」ロシアの地政学:「勢力圏」で読むユーラシア戦略』小泉悠著、東京堂出版、2019

はじめに――交錯するロシアの東西

近くて遠い島

クリミアから来た酒

ビザなし交流に船が用いられる理由は、当初、純粋に技術的なものだった。つまり、北方領土には軍用飛行場(択捉島のブレヴェストニク飛行場。旧日本海軍の天寧飛行場をソ連軍が接収したもの)を除いて空港が存在しなかったため、船で行くほかなかったのである。当時は日本政府が客船「ロサ・ルゴサ」をチャーターした交流用に使用していたが、これは「えとぴりか」よりもずっと小さく、古い船で、海が荒れた際の乗り心地は相当に酷いものであったと聞く。その後、「ロサ・ルゴサ」は船主である根室市内の企業が税金を滞納したことから差し押さえの対象となり、代わりに建造されたのが「えとぴりか」だ。

だが、ロシア政府の北方領土開発計画である「クリル諸島社会経済発展計画」によって国後島と択捉島に近代的な民間航空が整備されてからも、一部の例外を除き、ビザなし交流では「えとぴりか」が依然として主要な交通手段として用いられ続けている。北方領土では霧が発生することが多く、しかもロシアの建設した空港の着陸支援施設が貧弱であるために欠航が多いという事情もあるが、より大きな要因はやはり政治だ。

航空機で北方領土入りした場合、訪問団は現地に宿泊しなけばならなくなる。最近では北方領土にもホテルが建設されているので宿泊場所自体には問題ないが、こうなると不測の事態が発生する可能性が高まる。たとえば、訪問団員が何らかの犯罪に巻き込まれるとか、死亡するといった事態である。この場合、普通は警察による取り調べとか検死が行われるが、そうなればロシアの行政権を間接的に認めることになってしまい、日本政府としては受け入れがたい。実際、2018年には「えとぴりか」の船内で訪問団員が入浴中に死亡するという事態が発生したが、ロシア側による検死を受けさせた方がいいのではないかという医師の意見を外務省の随行員が突っぱねて遺体を根室まで持ち帰ったという。日本人は北方領土で「死んではいけない」のである。

この点、船を使えば島に宿泊する必要はなくなる。つまり、訪問団は朝に島に上陸し、1日の視察や交流が終わったらまた船へ引き返すということを毎日繰り返せばよい。上陸中にトラブルが生じた場合には如何ともしがたいが(ロシア人からのウォッカのもてなしで泥酔する団員がたまに出る)、少なくとも面倒の起こる確率はかなり減らせるというわけだ。最近では国後島に一泊する訪問形式も実験的に開始されているが、日本政府として安心なのはやはり従来通りの船内泊であろう。

ただ、「えとぴりか」から連絡船への移乗は細い渡し板を伝って行われるので、現役世代はまだしも、元島民のお年寄りには負担が大きい(*)。本書を執筆している時点で、元島民の平均年齢はすでに84歳に達しており、船旅の負担は年々大きくなっていく。ことに単なる交流ではなく、元島民による墓参りということになると訪問団自体の平均年齢も跳ね上がるため、2017年からは日露政府の合意に基づいて航空機による墓参が開始された。中標津空港から航空機を利用すればわずか40分で国後島のメンデレーエヴォ空港に到着するため、元島民の負担は格段に低下するが、この場合は島内に宿泊することなく日帰りである。

*)2019年には約3000万円を投じて「えとぴりか」が改修され、悪天候時でも船内で小型ボートに乗りこんでから海に降りられるようになった。

こうした事情もあるので、島内では基本的に自由行動は許されない。特に「国境」の島である国後島では制限が厳しいらしく、筆者が訪れた2度とも、古釜市の中心部を集団行動で視察するのがせいぜいであった。日本政府としても訪問団員が勝手な行動をとって政治問題に発展するのは避けたいところであろう。特に筆者が参加した2回目の訪問では、その直後に国後島を訪れたほう問題が持参した衛星電話をロシア当局に没収されるという事態が発生したばかりであった。団員の間でも「カメラは大丈夫かな」「携帯電話は置いていった方がいいんじゃないか」といった会話が交わされ、緊張した雰囲気が漂っていた(結果的に没収されることはなかったが)。

もちろん、自由行動が全くできないというわけではない。訪問団員はルーブルの持ち込みが許されており、限られた時間内に党内の商店街(ささやかなものだが)で土産物を購入したり、市街地の中心部を散策したりする程度のことはえきる。

といっても商店で売られているのは、一般的な食料品や生活雑貨ばかりだ。さほど珍しいものでもないので、訪問団の輪から離れて市街地の少し奥まで歩いてみた。

商店、学校、住宅などが海沿いの通りに並んでいる。看板や標識はもちろnロシア語で、街の造作もどう見てもロシアのそれだ。事情を全く知らない人物を目隠ししてここまで連れてきたとしたら、少なくとも日本だとは思わないだろう。よく「北方領土でロシア化が進んでいる」といったことがメディアで言われるが、「進んでいる」というよりもロシア化は「完了している」というのが筆者の印象である。それも5年前に比べると建物の多くがきれいにリノベーションされていたり、かつては泥道だった道路がアスファルトで舗装されていたりと、インフラは格段に改善されている。

スポーツウェアに大きなリュックサックを背負った3人組が道の向こうから歩いてくるのが見えた。地元の人間ではないようだ。挨拶してみると、「サハリンから観光旅行で来た」という。「あなたはどこから?」「日本です」「ああ、一度行ってみたいんですよ」そんな会話を交わす間、彼らの態度には全く屈託がなかった。日本としての立場がどうあれ、北方領土は実態としてもロシア国民の認識としても「ロシア」になってしまっている。

あまり遠くまで行ってもいけないので、商店街へ戻った。団員の買い物はまだ続いているので、筆者もいくつかの店を覗いてみることにする。

まず電器店に入ってみると、ガラスのショーケースにスマートフォンがずらりと並んでいた。「一番人気はどれですか?」との筆者の問いかけに、気のいい店員がカウンターから出てきて丁寧に説明してくれた。最も売れているのは駐豪ファーウェイ社のブランドHonor、これに続くのがやはり中国のシャオミー社製とのこと。価格は1万8000ルーブル台から2万数千ルーブル(だいたい3万円台前半から4万円台前半くらい)ほどだ。ロシア人の全国平均所得3万6000ルーブルと比較してかなり高価なようだが、北方領土の住民は給与の割り増し支給や住宅・光熱費補助など様々な優遇措置を受けている。その日の午前中に国後島の行政当局から受けたブリーフィングによると、国後島および色丹島の平均所得は月に5万2300ルーブル、大手企業勤務で平均7万6000ルーブルであるというから、決して手が届かないものではないようだ。ローンも利くという。

少し意地悪をして、「じゃあ一番ダメなのは?」と尋ねてみると、店員氏は少し笑って、中国某社の名前を挙げた。価格はいずれも1万ルーブル以下。かつてはロシアでも中国製と言えば粗悪品の代名詞であり、2013年の訪問では中国を見下すような声も住民から聞いたが、今では中国製も「ピンからキリまで」という認識に変化しているようだ。ちなみに北方領土に引かれている光ファイバー回線もファーウェイ社のもので、2019年にはサハリンから国後、択捉を経て色丹島にまで至る回線網が完成した。

続いて食料品店を覗いてみる。品揃えは5年前よりよくなっているようだが、やはり生鮮食料品は少ない。ソ連崩壊後、大都市では年間を通じて輸入物の生鮮食品に困ることはなくなったが、北方領土のような僻地では依然として生鮮食品は貴重である。しかも船や飛行機で運んでくるで、どうしても割高だ。上述の優遇措置も、人を集めるというばかりではなく、僻地での高コストな暮らしに対する補助金という側面もあるのだろう。

隣の店は酒屋で、酒瓶がずらりと並んでいた。ロシア人と言えば酒好きで知られる。キエフ大公ウラジーミル1世は国教を定めるにあたり、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教を検討したが、イスラム教では飲酒を禁じていると聞くと「ルーシの民から酒の喜びを奪うことはできない」と述べてイスラム教を退けたという伝説が残っているほどだ。最近ではインテリ層が公の場であまり酒を飲まなくなり、ビジネスライクな夕食ではワイン一杯だけ、という人も少なくないが、労働者階級は依然として良く酒を飲む。一番人気は何と言ってもウォッカだが、ワインやコニャックもよく飲まれてきた。

ただ、並んだ酒瓶のラベルは、筆者がモスクワで見慣れたものと少し違うようだ。

「これはクリミアのウォッカですよ」

いつの間にか背後に立っていた現地のコーディネーターが教えてくれた。国後島で観光事業などを手がけており、日本からの訪問団の世話を焼いてくれていた人物だ(もちろん日本人を監視するお目付役としての顔も持っている)。この日は安倍首相とプーチン大統領の顔写真が印刷されたTシャツを着ており、「ほら、シンゾウ(心臓)のところにシンゾウ(安倍首相)の顔が来るでしょ」と日本語交じりのロシアン・ジョークを飛ばしていた。

そう言われて「マリノフカ」というウォッカの瓶を手に取ってみると、なるほど「クリミア産」と書かれている。ワインやコニャックもクリミア産で、結局ビールを除く酒瓶の大部分がクリミア産の酒で占められていた。黒海に面したクリミア半島は古くから葡萄の産地として知られ、ソ連時代もワインづくりが盛んだった。

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