『交渉術』佐藤優著、文春文庫、2012(Ch. 1-8)

1. 神をも論破する説得の技法

私が政治の師匠として尊敬しているロシア人に、エリツィン政権初期の知恵袋で、ソ 連崩壊のシナリオを書いたゲンナジー・エドゥアルドビッチ・ブルプリス元国務長官 (現連邦院[上院議員)がいる。あるときこの男から厳しい指摘を受けたことがある。

「日本人は交渉術がなってない」
「どういうことですか」
「貴様、嘘をつくな!』といえば、相手も『なに!』といって、喧嘩になる。ところ が、『お互いに正直にやりましょう』といえば、誰も嫌な思いをしない。日本人にはこ の使い分けがわかっていない。誰も考えないのなら、マサル、お前が考えろ」
このときから私は交渉術について、真剣に考えるようになった――

そもそも交渉とは何なのだろう。
交渉術があるとかないというのは、どういうことなのだろうか。
実例をあげて考えてみよう。

最近、外交において、外務官僚の能力低下と不作為体質の蔓延によって国益毀損 するような事態が頻発している。二〇〇七(平成十九年四月二十三日に死去たエリ ツィン元ロシア大統領の国葬が同月二十五日、モスクワで行われたこの葬儀に日本は 政府特使を派遣することができなかった。アメリカがパパ・ブッシュ、クリントン氏 という二人の元大統領を派遣したのに対し、斎藤泰雄駐ロシア大使というロシアも できず、クレムリン(大統領府)や政府の要人との人脈ももっていない地味な人物だけを 参列させた。

弔問外交では、各国の歴史認識が問われるエリツィン氏、ソ連共産全体主義体制 を破壊し、国家指導部が国民の選挙によって選ばれるとともに市場経済を基本とする新 生ロシア国家を生み出した人物である。この歴史的業績を評価したから各国は大統領経 験者、首相経験者を派遣したのだ。

また、エリツィン氏は日本にとっても特別な意味をもつ指導者である彼は一時期北方領土問題を真剣に解決しようとしたことがある。北方四島の帰属に関する問題を解 決し、平和条約を締結することを定めた一九九三年十月の東京宣言に署名したのもエリ ツィン氏だ。弔問外交を巡る日本政府の対応からするとこれらのエリツィン氏の業績を高く評価しているとは思えない。

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