『湾岸戦争大戦車戦:史上最大にして最後の機甲戦』(上、戦前)、河津幸英著、イカロス出版、2011
field army(軍):100,000–150,000名
corps(軍団):20,000–50,000名
division(師団):10,000–15,000名
regiment(連隊) brigade(旅団) legion(軍団):2,000–5,000名
battalion(大隊) cohort(大隊):300–800名
company(中隊):80–150名
platoon(小隊):15–30名
squad(分隊) section(班、大分隊):8–12名
firearm(組、班):3–4名
大将:―――
中将:軍司令官、軍団長等(准将が無い陸軍では師団長)
少将:師団長(准将が無い陸軍では副師団長、旅団長または団長)、陸軍省各局長等
准将:副師団長および旅団長等
大佐:主に連隊長等を務めており、連隊を廃止している国では、旅団長を務める場合も
中佐:大隊長、副連隊長等を務める。また、現在では連隊を廃し旅団編制を基本とする傾向にあり、旅団長を大佐職とする国では副旅団長
少佐:師団幕僚、大隊長若しくは中隊長又は連隊付等
主要先進国の軍隊では、大尉から少佐への昇進時に特別な専門教育を受ける。個人の能力以外に「現場での集団への指揮能力」を認められた者に与えられる役職である。そのために昇進することができず最終階級が大尉で除隊する者が多い。
大尉:中隊長等
中尉:大隊幕僚、中隊付若しくは中隊長、又は小隊長等
少尉:連隊もしくは中隊付、又は小隊長など
下士官
曹長(Sergeant Major):
防衛大学校や一般大学を卒業して幹部候補生を命ぜられた者はこの階級から始まる
軍曹:
伍長:組、班(firearm)
軍曹の下、兵卒の上
はじめに
二〇一一年一月一七日は、湾岸戦争開始(一九九一年一月一七日)からちょうど二〇年目に当たる。米軍や当事国は盛大な記念式典を挙行するであろう。しかし同年の二月二四日がいかなる日付なのか記憶している者は極めて少ないに違いない。この日は、イラクとの国境線沿いに集結した兵力五一万人の多国籍軍地上部隊が、一斉に侵攻をスタートした地上戦(GroundWar)開始日、Gデイである。
なぜ二月二四日が、人々にまったく記憶されないのかと言えば、あっけなく終わったからと言い切ることができよう。開戦前まで多くの識者たちが、地上戦に踏み切った場合、かつて米軍が敗北したヴェトナム戦争の二の舞を犯すことになり、戦争が泥沼化するのではないかと危惧していた。ところが蓋を開けてみると、地上戦は、たった四日間、一〇〇時間あまりで多国籍軍が圧勝し、二月二八日に停戦となったのである。あまりに短い幕切れと、戦争終結の安堵感、華々しかったハイテク兵器による空爆作戦の陰に隠れて、地上戦への関心は萎み、消え去ってしまったのである。
今回、二〇年後に改めて湾岸戦争(Gulf War)、米軍の正式呼称「砂漠の嵐作戦(Operation Desert Storm)』を分析しなおし、当時、常識であったこの戦争に対する代表的なイメージが、単なるメディアによって模造された幻影にすぎないことがはっきりした。一つは、湾岸戦争が決してメディアが宣伝したような空爆作戦によって勝利したハイテク戦争ではなかったこと。多国籍軍航空部隊は、一か月以上にわたって戦域(イラク南部から全クウェート)に布陣したイラク軍部隊を集中爆撃したにもかかわらず、討ち破ること(無力化)ができず、結局、地上戦に突入せざるを得なくなったのである。
もう一つは、あっけない地上戦という誤ったイメージが、華々しい空爆作戦(例えばF-117ステルス攻撃機が投下するレーザー誘導爆弾やトマホーク巡航ミサイルによるピンポイント攻撃)の対極として、根拠も検証もないままつくられてしまったこと。特に、停戦後にテレビ映像で報じられた膨大な数のイラク軍捕虜たちの戦意を喪失した情けない姿から、イラク地上軍部隊は、空爆によって組織的戦闘能力を崩壊させられ、雪崩現象的に降伏したのだというイメージが出来上がってしまったとも言えよう。
実際には、共和国親衛隊を核とするイラク軍戦車軍団の主力は、戦線深くに複数の防衛線を構築して米軍を主力とする多国籍軍地上部隊の地上攻勢を待ち受けていたのが真実なのである。これに対して多国籍軍は戦力をかき集め、全正面から一大攻勢を仕掛け、これを力ずくで討ち破った第二次世界大戦型(ヨーロッパの戦い)の戦争であったのである。この攻勢作戦の渦中において、史上最大規模、かつ史上最後とも言われる大戦車戦が両軍間で戦われたのである。
当時のメディアは、湾岸戦争を第二次世界大戦のようなローテク(物量)戦争と対比してハイテク(先進技術)戦争と形容し、過熱した中継報道を連日続けた。日本でもテレビ画面には、米軍の最新兵器がコンピューター・ゲームそのままに、狙いをつけたイラクの軍事目標だけを正確に選別し、直撃破壊する生々しい映像を見ることができた。もちろんこのような映像を提供したのは、米軍である。彼らはハイテク兵器によってイラク市民の犠牲を避け、友軍兵士のさら命も危険に曝さずにすむことを世界中のメディアを通して流そうとしたのである(情報操作作戦)
しかし、湾岸に集結したアメリカ軍の実態は、二一世紀の軍隊が目指すことになる軽量・コンパクト・高機動なハイテク型の戦争マシーンではなかった。八〇年代の冷戦期に完成を目指していた対ソ連軍向け、あるいは第二次世界大戦スタイルの重厚長大な戦争マシーンそのものであった。
なにしろ、湾岸戦域に展開した米軍地上部隊の戦力は、兵力約四一万人、戦車二五五〇両に達していた。これに多国籍軍の地上戦力が加わる(兵力約一〇万人、戦車約一〇〇〇両)。対して戦域に布陣したイラク地上軍の総戦力は、兵力約三四万人、戦車三四七五両であった。とりわけフセイン政権を武力で支えていた共和国親衛隊は、イラク軍守備隊の骨幹戦力として、優勢な機甲兵器と旺盛な戦意の兵士を有し、領内深くに強固な防衛ラインを構築していたのだ。国境を挟み、両軍合わせて八五万人の兵力と、七〇〇〇両を超える戦車部隊が集結、対峙し、激突したのである。
多国籍軍の総司令官となった米陸軍のシュワルツコフ大将は、地上戦突入前に空爆によってイラク軍地上部隊を徹底的に破壊するよう強く求め、実際に二万三四三〇回もの爆撃が加えられたのだが、この空爆で破壊できたイラク軍戦車は全体の四割ほどにすぎなかった。空爆だけでは、砂漠に掘った壕に隠れて布陣するイラク軍主力の戦車軍団を屈服させられなかったのである。最後の手段として、多国籍軍地上部隊の主力をなす米軍機甲軍団が、フセインの誇るイラク軍戦車軍団を殲滅すべく、イラク・クウェート領内に侵攻、砂漠地帯において一大戦車戦を展開することになる。
本書は、湾岸戦争大戦車戦を舞台裏から精細に描き出すため、上下二巻に分けている。上巻では、主テーマとして、大戦車戦を繰り広げることになる両軍主力の戦車部隊と兵器を取り上げ、その戦闘能力・メカニズムの特徴や戦闘方法、および地上戦開始までに実施した湾岸戦域への大陸間渡洋展開や砂漠訓練等の状況を、個々の部隊や指揮官をピックアップする形により具体的に明らかにするようにした。なかでも、米軍側ではM1A1戦車を武器とする第7軍団、イラク軍側ではT72戦車や長距離砲を武器とする共和国親衛隊を徹底解剖している。下巻は、共和国親衛隊司令官アルラワイの反斜面戦術に従ってイラク南部の砂漠で待ち伏せる精鋭戦車軍団と、西側から迂回して側面包囲攻撃をしかける第7軍団の機甲部隊の激突を主テーマとしている。特に、地上戦の最後の二日間に行われた
第2機甲騎兵連隊による『735イースティングの戦い』、
第3機甲師団による『タワカルナ北部主陣地攻防戦』、
第1歩兵師団による『ノーフォークの戦い』、そして
第1機甲師団による『メデイナ尾根の戦い』
は、戦史に名を遺す戦車戦となったが、記したような理由から一般的には知られていない。また、地上戦の終盤には、前線司令官のフランクス将軍と、リヤドに陣取る総司令官シュワルツコフ大将との間に深刻な確執が生まれるが、こうした対立にも似た人間模様もあわせて記している。
本書に描かれている数多くの部隊や指揮官による戦闘作戦の実像やデータは、米軍公刊戦史・出版物、司令官クラスが執筆した自伝、出征軍人が書いた著作や論文類を最大の情報源とし、これにジャーナリストの著作情報を、信憑性を基準として適宜肉付けしている。彼らの貴重な体験と執筆努力に、紙面を借りて敬意を表したい。
最後に、戦史として執筆する上でもっとも残念であったのは、イラク軍側の資料が皆無なことである。それでも、二〇〇点を超える解説図版により補足された本書は、世界最高水準の湾岸戦争地上戦に関する著作となったものと自負している。本書が今後の戦史研究の礎石になればと願うものである。
二〇一一年五月
河津幸英
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