炊飯ジャーの使い方がわからない父
「飯ごうで米を炊くぞ!」
父としては天才的なひらめきだったようだが、それは間違いなく悪手であった。
なぜ炊飯ジャーがあるのに、飯ごうでお米を炊かなければいけないのか、小学三年生の小さな脳ではわからない。いや、大人になった今思い返してみても、やはりわからなかった。
なぜ飯ごうでお米を炊くことになったのか。それを紐解くには時を少し戻す必要がある。
その日、僕は小学校が終わって早々、友達と遊ぶために家を飛び出した。下校後の時間から17時のチャイムが鳴るまで、およそ2時間ほどしかないのだが、その2時間をフルで楽しむために、すぐさま家を飛び出す。ありふれた小学生の日常である。
その日もいつもと変わらず家を飛び出し、17時のチャイムが鳴るころには全身泥だらけで、お腹を空かせながら家路についた。
この時間になると、夕飯の準備に取り掛かる家庭がでてくる。各家庭で準備されている夕飯のにおいは、換気ダクトから外に漏れ、お腹を空かせた僕の脳を麻薬のごとく刺激する。
お、この家はカレーかな。ここの家は揚げ物の匂いがするなー。
そんなことを考えながら、自分の家ではどんなご飯を母が作っているのか、期待を寄せる。ほかの家と同様に、我が家に近づくと、母が作る料理の匂いが外に漏れている。その匂いを嗅ぐだけで、唾液が口いっぱいに広がる。
しかし、その日、僕が家に帰ると匂いはしなかった。
母親が料理を作っていない……ということは外食の日かな?そんな期待を膨らませ、僕は家の扉を開いた。
「ただいまー」
「おかえり」
僕のただいまに対し、おかえりを返してきたのは母ではなく父だった。当時、父はシフト勤務であったため、平日休みが多かった。その日の父は休みであったようで、一日家にいたようだ。
そんなこともあり、父がおかえりをいって僕を出迎えることは珍しくもないのだが、なぜだか変な空気を感じた。僕の日常の一コマのはずなのに、その日は家の中に言いようもない違和感があった。
その違和感の一つが、母親からのおかえりがなかったことだ。どこかに出かけているのだろうか。
「お母さんは?」
なんのけなしに聞いた。
季節は夏。17時だというのに、太陽からはいまだ暑い日差しがさしている。明暗がはっきりしているのか、家の中に広がる影がどす黒く広がっている。
そんなどんよりとした空気の中、僕の質問に父が応えた。
「お母さんな、出て行った」
出て行った……?
僕は混乱した。父が母に対し”出て行った”という言葉を使うということは、つまりそれは婚姻関係の破綻を表しているのではないだろうか。小学3年生の僕でも、テレビでそんなセリフ回しを聞いたことがあるので、父の言っている意味はなんとなくわかった。意味はわかったが理解はできなかった。
「出て行った……?どこに……?」
僕は恐る恐る聞いた。
「実家に帰ったらしい」
父は答えた。知っている。そのセリフもドラマで聞いたことがある。お暇をいただいたということなのだろうか。いやな想像が頭を駆け巡るなか、父は言った。
「だから、今日は俺がご飯を作るぞ!」
妻に逃げられたかもしれないというのに、父はいたって平常運転だった。なぜそんなにポジティブなのかがわからない。いや、飯の心配はもちろんすべきところなのだが、実家に帰るらしいの次の言葉が夕飯というセリフ回しはドラマでもみたことない。
「まじかよ!お父さん飯作れるの!?作ったとこ見たことないし!作れるの!?すっげぇ!!」
母親に逃げられたかもしれないというのに、僕もいたって平常運転だった。まぁそもそも、こんな重要なことを真に受けていたら、普通の子供だったら精神に何かしらの影響が出てしまうだろう。もしかしたら、母親が出て行ったという異常な事態を見て見ぬふりすることで、精神の安定を保ったのかもしれない。僕も父も。
「うーん、作ったことはないけど作れるだろう」
父親はさらにやばめのセリフを吐いた。母親がいないことも心配なのだが、こいつに料理を作らせることはさらに心配だ。僕は震えた。
「え……大丈夫なの……?」
僕は恐る恐る聞いた。
「まぁなんとかなるだろ。とりあえず米を炊こう!」
そう言って父親は炊飯ジャーをいじりだした。僕は母親の料理を手伝ったことがあったため、炊飯ジャーの使い方は知っていたのだが、父は炊飯ジャーの使い方がわからないのか、眺めているだけだった。これほど真剣な眼差しで炊飯ジャーを眺める人を見るのは後にも先にもこれが最後であろう。
「えぇと……僕、使い方わかるよ」
僕は炊飯ジャーとお見合いしている父に助け舟を出した、瞬間、
「飯ごうで米を炊くぞ!」
父は文明の利器を遠くのかなたに捨ててしまった。
なぜ炊飯ジャーがあるのに、飯ごうでお米を炊かなければいけないのか、小学三年生の小さな脳ではわからない。いや、大人になった今思い返してみても、やはりわからなかった。妻がいなくなってとち狂ったとしか思えない。
確かに、父はキャンプが好きで、飯ごうでご飯を炊くこともしばしばあった。しかしそれは、炊飯ジャーを使えるから、飯ごうでも炊けるものだと僕は思っていた。初級技術である炊飯ジャーをクリアしたから、上級技術の飯ごうを扱えるようになる、そういう発展的なスキルなのだと思っていたが、こいつの場合そうではないようだ。知能レベル的にはジャワ原人と比べても遜色がない。
飯ごうで炊くと決めてからは行動が早かった。キャンプの時のように、手際よく準備され、コンロの上に乗る飯ごう。初めて見る光景である。
「うーん……」
飯ごうを火にかけたところで父がうなった。何を悩んでいるのだろう。ここまでの行動でなんとなく父は料理ができないことはわかったから、もしかするとおかずで悩んでいるのかもしれない。母が作るような手の込んだ料理は父には作れない。しかし母の味を求める息子に、どうにかして母の味を食べさせてあげたいが、いかんせん料理が下手でどうしようもない。そんな苦悩の末に「うーん……」という唸りが思わず出てしまったのかもしれない。飯ごうを使いだした時点でその悩みはなくなっていたかと思った。
「どうしたの?」
「せっかく飯ごうで作るんだから、キャンプしたいよな……テント張るか」
予想の斜め上をいった悩みだった。
「どこに張るの?庭にそんなスペースなくない?」
僕は聞いた。
「リビングに張ろう」
父の目はキラキラしていた。かなりヤバめのことを言っているはずなのだが、
「何それ、めっちゃ面白そう!」
満場一致で採択された。かくしてリビングにテントが張られた。あまり広くないリビングいっぱいいっぱいにテントが張られてしまったのである。
そんなこんなで疑似キャンプが始まった。
「あとはおかずだな。キャンプといったらやっぱりバーベキューだよな」
コンロにかけられた飯ごうを見て父が言った。ここまで来たら、非日常を思い切り楽しむために僕も全力を尽くしていた。いつの間にか母親がいないという非日常が、家の中でキャンプをするという非日常にすり替わっていた。
「バーベキューってことは七輪だね!僕持ってくる」
「頼んだ!」
僕は倉庫から七輪と炭を持ってきて食卓に置いた。
「よし、飯も炊き上がったし、焼いてくぞ!」
「おー!」
食卓の上でバチバチなる七輪。
網の上でジュージューなる肉。
充満する肉と油と炭の匂い。
「いただきまーす!……うめぇー!もう外でキャンプなんて必要ないじゃん!」
僕はあまりのおいしさにうなった。飯ごうで炊かれたお米はお世辞にもいい出来とは言えなかった。少し水っぽく、ぐちょっとしている。肉だって、ただ焼いた肉を焼肉のたれにつけて食べているだけだ。それなのに、ものすごくおいしかった。僕はこの時ばかりは母親がいなくなったことを忘れ無我夢中で肉にかぶりついた。
「そうだろー!やっぱり炭火は最高だなー!」
ビール片手に父は上機嫌に言った。僕が母のことを忘れて楽しんでいることが伝わったのかもしれない。
その日、あっという間にご飯を食べ終えた僕たちは、リビングのテントの中に寝袋を敷いて床についた。
眠りにつく前に母のことを少し考えた。
父と母は仲が悪かったわけでもない……と思う。きっとほんの少しのすれ違いが生じただけだ。僕はそう思った。もし、母が帰ってきたら、家キャンプのすばらしさを伝えてみよう。こんなに楽しいことをこの家でできるんだと。炊飯ジャーを使わないお米や、タレにつけただけのお肉がこんなにもおいしくなるんだと。そんな楽しい一面がこの家族にはあるんだということを伝えることができれば、きっと母は戻ってきてくれるはずだ。
そんなことを考えながら僕は眠りについた。
…………
今にして思うと、父も不安だったのだろう。母がいなくなって一人でやっていけるのか、一人で息子を育てられるのか、そんな不安が父の中にもきっとあったのかもしれない。しかし、肉に必死にかぶりつき、満面の笑みでおいしいと叫ぶ息子をみて、そんな不安も消し飛んだことだろう。
あの日の”おいしい”という言葉は、僕にとっても父にとっても魔法の言葉だったのかもしれない。
ちなみに父が「出て行った」と称した母親は、同窓会参加のために九州の実家に帰っており、次の日の夕方には帰宅した。
リビングに広がるテント。炭と油の臭いが充満する部屋。これ!すごいでしょ!七輪で焼いたからおいしいよ!おいしいから出て行かないで!っと涙と鼻でぐちゃぐちゃになった顔で縋り付く息子。
その惨状を目の当たりにした母親は烈火のごとく父親を叱りつけ、僕を連れて親戚の家に泊まりに再び出て行きました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?