遠くに見える英国の邸宅ーーナターシャ・ブラウンの『Assembly』
ロンドンから程離れた場所にある、交際相手である白人男性の両親が暮らす邸宅に招かれた語り手の女性--名前は明らかにされない--は、次第に、その場にいることに耐えられなくなる。
その日、広大な屋敷では男の父と母の結婚記念日を祝うパーティが行われることになっている。女性は初めてパートナーの実家に足を踏み入れ、その邸宅で、家族に紹介される。母親は語り手のことを「うちの末っ子の一番新しい彼女」と表現する。
翌朝のまだ早い時間、男は自室で寝ている。母親と妹は庭で、もう何度も繰り返されたであろう午後の催しの段取りを話し合っている。男の母は、語り手が退屈そうに見えたのか、「外の空気を吸って気分転換してきたら」と声をかける。彼女はそうすることにする。
広大な邸宅はどこまでも続いているように見える。「今はただ歩きたかった。どこまでも続く庭が終わるその先まで。今は距離を取りたい。私はそう思う。あの丘の向こうまで」。
家族から離れるように、彼女は敷地の端の方まで歩き続ける。しかし、どこまで歩いても屋敷が視界に入る。赤いレンガの屋根が白いひさしの後ろに高くそびえている。今やそれは遠く離れているがしかし見えなくなることはない。
「屋敷とひさし、そして距離だけが、今ここに存在しているかのように」
彼女は歩き続けることにする。
本作は英国の作家ナターシャ・ブラウンのデビュー作で、2021年に出版された。新型コロナ以前のロンドンを舞台とした100ページの短い小説で、語り手である女性の職場での関係性や、交際相手との私生活を描く。
語り手はジャマイカ系の移民2世で、ロンドンで育った。有名大学(オクスフォードかケンブリッジ)を卒業後、金融街のシティにある投資銀行で働き、同僚の中でも高い業績をあげてきた。
金融業を「無慈悲で有能な、金の機械(マシーン)」と自嘲しながらも、それは黒人である自分が成功を収めることのできる限られた選択肢のひとつだったと彼女は話す。自分の母親や祖父母はその選択肢さえなかったのだと。彼女は成功を収めている。高い年収を得て、最近ではロンドン近郊に部屋も購入した。その人生は何不自由ないどころか、他人が見れば羨むような生活だ。
しかし一方で、語り手は日々構造化された差別とでもいうべきものにさらされている。例えば、語り手は職場で昇進を告げられるが、上司は彼女が黒人であることが理由だったことを隠そうともしない。会社のイメージアップになるからなのだと。
あるいは女性は、自身の経験を学生に対し話すよう会社に求められる。そこには、黒人として自らが感じたハードルについて語れという無言の圧力がある。男性との関係の中にさえ、常に人種問題が内在する。
語り手の中に澱みのように蓄積したアイデンティティをめぐる倦怠と疲労感は、彼女がある時点で癌の診断を受けたことを契機として微妙に変化していく。自分が死ぬかもしれないという可能性への意識によって、彼女の中に溜まっていた何かが閾値を超える。
ある思いを抱きながら、語り手は恋人の実家に向かう列車に乗る。そして、伝統的英国人のお手本のようなその家族と対峙する冒頭の場面につながっていく。
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語り手には、ある程度まで作者のナターシャ・ブラウンの実体験が投影されているだろう。ブラウンはケンブリッジを卒業後、金融業界で10年近く働いた後で小説を書き始めたという。あるインタビューで彼女は、自身は常に「読み手」であったこと、小説を書き始めたのはとても遅かったことについて語っている。
本作は大きな反響を呼んだ。受賞さえしなかったが、ロンドン大学が(「小説の可能性を広げる」)現代の作家を選んで授与するゴールドスミス賞や、オーウェル賞といった文学賞の候補作となり、2023年には有名な文学雑誌グランタ(Granta)の「Best of Young British Novelists」にも選ばれている。
邦訳も多いスコットランド出身の作家アリ・スミスは本作を「変化が起こる瞬間を刻むだけではなく、変化を可能にするような作品」と評価している。多くの評者は、バージニア・ウルフやトニ・モリスンの作品との連関を指摘しているが、ブラウン自身はいくつかのインタビューで、米国の黒人作家クラウディア・ランキンの『Citizen:An American Lyric』(2014)を影響を受けた作品として挙げ、「この小説は、本というメディアに何ができるかを私に教えてくれた」と話している。
『シチズン』も、『アッセンブリー』と同様、マイクロアグレッションを扱った作品だが、こうした日常化したいわばソフトな差別は、グローバル化とともの多くの社会が同様に抱える課題といえるだろう。多文化社会の代表格であるロンドンにおける、成功した黒人女性のアイデンティティをめぐる葛藤、という主題は−−作者自身のものであるかどうかはさておき−−現代性があり、訴求力も高い。
ただ、この小説の魅力は、むしろその文体にある。職場や私生活を淡々と示す描写と、意識の流れを思わせるテキストが織り交ぜられるその文体は、どこか「ダロウェイ夫人」を思い起こさせるところがあり、多くの評者もそれを指摘している。
少し引用しよう。例えば次の文章は、語り手が、職場での自らの新しい席を眺めている部分だ。
最初に紹介した、交際相手の男の邸宅の庭で語り手は、歩き続けながら次のような思考に囚われる。
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