すずめの戸締まり。新海誠の世界観

それは、扉を開く物語だった。

新海誠を知ったのは、僕が中学生の頃。
お小遣いをはたいて買ったアニメージュの付録、パイロット版の『雲の向こう、約束の場所』のデモムービーが、僕にとっての彼との出会いだった。
彼の紡ぐガラス細工よりも脆く美しい、奇跡みたいな日常の風景に心奪われた。懐かしい風景と、愛おしさに満ちた夜の明かり。まだノスタルジアを感じられるほど故郷から離れていない僕にとっても、その映像は「失いたくない」と思う心の中の風景と重なった。

彼の作品の光は、心の中で見る風景に似ていた。
彼の作品を追いかけた。彼と彼女の猫。ほしのこえ。雲の向こう、約束の場所。秒速5センチメートル。言の葉の庭。彼の作品に紡がれる言葉は、全て、覚えた。

最新作となる、「すずめの戸締まり」。僕は、今度こそは、新海誠の「私小説」を読めるのではないかと、少しだけ、期待していた。
彼がその創作の階段を駆け上るにつれて、「僕たちの」新海誠は、ずっとずっと遠ざかって行ってしまったように感じて。それは彼の作品の放つ光を少しも翳らせるものではなくて、それ以上に彼の放つ光は、この日本という国を覆ってゆくように感じていたけれど。あの日僕がDVDで見たパイロットフィルムのような、独りの感性を痛いほどに研ぎ澄ました、足りないものだらけの彼の作品が、少しだけ懐かしく思えた。

今度の彼の作品は、私小説ではなかった。
それは、彼というたった一人の小さな人間が、絶望的に大きな物語に対して出した、哀しいほどに愚直で、そして否定しようのない純粋な応えだった。

僕らの世界は、襲いかかる苦難や厳しさを、技術と努力により重複してきた。自然という恐ろしく混沌とした原初のものを、人の想いがねじ伏せてきた。
人は都市を作り、光を紡ぎ、儚い営みを暮らした。その物語は泡沫のように人々の幸せを作り、ある日それは、唐突に、弾けた。
2011年3月11日。
僕らの物語は、自然のたった一つの身震いで、簡単に壊れてしまうことがわかった。
あの日のことを忘れることはできない。押し寄せる津波と、明かりの消えた街。沢山の「いってきます」を飲み込んだ悲劇。
それから10年余り。僕らは今も、復興の途上にいる。

今だからこそ語り得る物語だったのだろうな、と思った。

彼女を救ったのは、そして現実の僕らを救ったのは、なんでもない、10年という日々の積み重ねだった。
僕らは、あの悲劇を、なるべくならば見ないようにしながら、けれど意識はしながら、生きてきた。
新海誠の新しい物語は、その悲劇に真正面から向き合うものだった。彼女は青年との旅を通じて、各地の「後ろ戸」を締めながら、今まで彼女が触れてこなかった人々と触れ合い、彼女が感じていた世界の扉を開いた。ちっぽけな部屋と学校、過保護な保護者。それだけしかなかった彼女の世界は、産声を上げるように広がり、やがてこの国と重なっていった。
もうずっと前に衰退を始めて、きっとこれからもっと衰退してゆくこの国。終わりを意識する閉塞感の中で、彼女は土地の「声」を聞いた。
それは、かつてあった、人々の精一杯の営みの記憶だった。
青年はたった独り、その記憶に気付き、誰にも気付かれず、その声と向き合っていた。それは僕らが慈しんだ、彼のこれまでの作品に似ていた。

彼女は僕らだった。
10年の時を経て、無数の想いに寄り添われて、独りで立ち上がった、漸く前を向くことができた、僕らだった。
「おかえり」
あの時たくさんの人が伝えられなかった想いを抱いて、扉を開いて、前に進む、僕らだった。
僕らは泡沫のような幸せに揺られながら、それが永遠に続くことはないと分かっていながら、それでもなお、生きたいと望む。
それは自然という巨大でどうしようもないものに対する、ささやかな祈りと抵抗で。その小さな営みが、無数に連なり「今」という奇跡を生み出していく。
彼女に彼が救われたのは、そして彼が彼女に救われたのは、世界を変えるとんでもない魔法などではなく、ただちっぽけな人間の、愚直なまでに自分勝手な想いだったのだろう。

新海誠の物語は、彼と彼女の、そして彼と僕らの、記憶を慈しみ、前に進む物語だと思うのだ。

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