子どもの貧困について考える

はじめに

子どもの貧困という言葉を聞くと何を思い浮かべるでしょうか?
アフリカなどの発展途上国で栄養失調になっているお腹だけ出てガリガリの子どもでしょうか。
住む場所、食べ物、服に困る子どもたちでしょうか。
確かにそうした子どもは貧困であるといえます。おおよそ今私たちの住む日本にはお見かけにならない光景でしょう。
しかし、日本にも確かに貧困はあります。
貧困はどう定義するのか。貧困は社会にとって何が問題なのか。整理していきたいと思います。

絶対的貧困と相対的貧困

子どもの貧困について綺麗にまとめてある有名な書物として、阿部彩先生の『子どもの貧困ー日本の不公平を考える』があります。

先程、あげた食べるに困る、衣服、住むところに困るといったいわゆるイメージしやすい貧困は、「絶対的貧困」と言われています。

「衣食住」を最低限満たす程度の生活水準以下と思っていただければ大きくずれてないでしょう。

それに対して、近年問題に挙げられてる概念は「相対的貧困」です。

相対的貧困は、人として社会に認められる最低限の生活水準は、その社会における「通常」からそれほど離れていないことが重要であり、それ以下を「貧困」と定義している

とあります。少しわかりにくいので解説を入れると、どんなボロボロでも服があればOKかと言われればそうではありませんよね。
人前に出るのに最低限穴が空いてない服が必要でしょう。

私たちが社会で「それなり」に生きていくためには、「それなり」の暮らしが必要であるということです。
もちろんこれは、国によって基準が違います。
なぜなら、その国で生きていくに当たって、どの程度が「それなり」が変わってくるからです。

ではどのように貧困を測るのでしょうか?

世帯の所得が、その国の等価可処分所得の中央値の半分に満たない状態

以上のように、厚労省では定義されています。
わかりにくいのでざっくり説明すると、同じところに住んでる家族全員の手取りを足したものが、日本全体で中央値の半分以下だったら貧困ということになります。

中央値は平均値と違うのでご注意くださいね。
(中央値は全体の人数のど真ん中にあたる人の値です)

いやいや、中央値の半分以下だったら常に誰か貧困になるじゃないかと思うかもしれませんが、その通りです。全員がかなり似通った所得でない限り、また格差があればこの定義の貧困はでてくることになります。

相対的貧困の定期を使った子どもの貧困率は13.9%です(OECD, 2014年調べ)

これは、OECD加盟国だと10番めの高さにあたります

貧困が問題と言われるのはなぜか

よく貧困は問題であると言われます。
なぜでしょうか?
自分で納得のいく答えを自信を持って言える人はどれほどいるでしょうか?

確かにお金がないと子どもを育てるのは大変です。
親の負担はまず考えられるでしょう。
次に、平等の観点からもよく貧困は問題だと指摘されます。いわゆる貧困家庭の低学力の問題ですね。

こうした理由を言うと、よく貧困についてあまり考えたくない人たちはこのように言います。

「お金がないのに子どもを産むなよ」
「お金がなくても東大に行く人もいるだろ?本人の努力次第では?」

上から見てみましょう。
一つめは、子育ては親の責任という考え方が支配的な人です。
子育ての責任の第一義的な責任は親にありますが、そもそも親だけで育てられるのであったら、学校も何もいりません。

むしろ、社会が子どもを育てるという視点があることも忘れてはいけません。
もし親が全部育てるという考えを強くしていくのであれば、学校も行政も何も要らなくなってしまいます。おそらく、それができるほど人間は完璧な存在ばかりではないでしょう。

二つめは、自己責任的な考え方が支配的な方によく聞く考え方です。
もちろん、本人の人生なんだから、自分の責任で生きてくれよというのはよくわかります。
ただ、この考え方には大きな穴があります。

自己責任を語る時に唯一大事なのは、スタートラインが同じであるという前提です。
スタートラインが同じなのに、ゴールがバラバラなのは本人の努力や才能の差だとこう言いたいわけです。

しかし、先天的な才能や個性というのは、実際はそんなに差はないでしょう。
しかし、東大生の親の年収を見てみると、950万以上が6割を超えています。
親にあたると思われる45〜54歳の男性の年収950万以上の人が12.3%しかないところをみると、大きく偏っています。

少なくとも収入の差はどうやら学歴に影響を与えるようです。
似たような証拠は調べるとポロポロと出てくることがわかるでしょう。(興味がある方は、阿部彩先生の「子どもの貧困」をお読みください)

収入の差が親の子育てへの関心の高さや、習い事などへの親和性、そもそも努力できる環境にあるかどうかに大きな影響を及ぼしています。

もちろんこのことは、頑張ってる人を否定したいわけではありません。
同じだけ頑張っても最初っから足を引っ張られるという不平等の中で、公平な競争というのは、おかしいという自己責任論の大きな弱点があるというだけです。

治安を保つための教育や福祉

ここまで言うと確かになるほど、不平等が原因で子どもにもその不平等がふりかかるから、問題なのかと多くの方は納得してくれます。

しかし、一部の方はこう言います。

「いや、俺には関係ないしな」

確かに、貧困家庭があろうと、飢え死にするわけではありません。貧困家庭が、低学力から低収入になり、貧困が再生産されたところで、「俺には影響がない」と思う人がいることも理解できます。

実は、貧困家庭に対する福祉や教育の施作には次のような狙いがあることもあります。

「治安維持」

よくある話ですが、ホームレスの方で冬を越すのが寒いので、軽度の犯罪をおかして、刑務所に入るという実態がニュースなどで見かけたこともあるでしょう。

生活基盤が不安定になれば、犯罪を犯す人も出てきます。無敵の人という言葉もあるように、そもそも、犯罪をおかした人に罰があるのは犯罪を犯す人の心理的抵抗をあげるためでもあります。当然、貧困等で社会的に追い詰められていけば、刑事罰を受けるのは痛くも痒くもないという状態になっていくことも考えられるでしょう。

それでしたら、早めに支援をすれば、自らの足で稼いでくれます(自立してくれます)し、治安維持費も安くなるという論法です。治安の悪化という自らにふりかかる被害を減らせるので、まったくの無関係とはいえなくなりました。

まとめ

貧困というのは、絶対的なものというよりも、その国で「それなり」に生きていくのに必要な最低限のお金という指標があります。

貧困は、様々な問題を引き起こしますが、社会の不平等(これにより適切な競争ができなくなり、不満がたまります)や、治安の悪化が考えられます。
アメリカで、貧困層が住む地域と富裕層が住む地域でわかれ対立するといったこともありますが、そうした場合一時的に貧困層を隔離しがちです。
しかし、それは残念ながら問題を先送りにしているだけですので、いずれ、格差が広がった時に何が起こるのか、自己責任だと言い続けたツケを支払うことになってしまうでしょう。

貧困をなくそうや、格差をなくそうといった文字列では簡単で極端なことは言うつもりはありませんが、縮める努力をするという姿勢が大切な気がします。

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