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必要とされて、ぎりぎりを生きている。整理のための文章。

 幸いなことに最近は出演依頼をいただいたり、常連としてイベントに参加したりすることが増えた。新しい表現領域から誘われることも、自ら入っていくことも増えた。もちろんそうなると、今まで関わることのなかったタイプのさまざまな人とも交流することになるし、その流れのぶつかり合いの中で自分が揺らぐことも増える。そんな中で、もしも誰も読まないとしても文章を書いて、迷いの整理をすることはけっこう大事かなと思っている。

 珍しく最近は予定が多い。特に出演やイベントの予定。今日の夜は友人宅にいって、所属団体の本公演のシーン作りを進める。夜ご飯を出してくれるらしいのでありがたい。明日の昼はほんとうに久しぶりに外でのパフォーマンス(投げ銭)のコラボに誘われたので、雨が降らない限りマルシェで即興パフォーマンスをする。その夜には扇町公園という広い公園で、(迷惑をかけない程度の規模の)ゲリラパフォーマンス発表会みたいなことをする。自分事ながら密度がすごい。

 今まで、自分に合わないだろうと思って使っていなかったFacebookを始めて、自分より年上や年配の方と急激に繋がるようになった。僕はもう何回転生を繰り返したのかわからないような価値観のひっくり返しの連続を生きてきたので、人生に対して異様に幼い部分もあるし、逆に異様に老いさらばえたところもある。なので、年配の表現者の方と接していると不思議と安らぐことは多い。

 コンテンポラリー・ジャグリング、即興表現、朗読、詩作、短歌、作詞、舞台、モノクロ写真…いろんなことを吐き出していかないと生きていけなくて、いろんな表現に手を出してきた。でもここにきてさらに、「人から褒められたり、勧められたりする」という形でまたいろんな世界に誘われている。

 最近だと子供たちとの表現WSのゲストや、コンテンポラリー・ジャグリングのソロの演目や、生演奏のサックスとジャグリングの即興デュオや、自作詩のパフォーマンス形式での朗読などでオファーをいただいた。自主的にイベントに参加する時はこちらがお金を払う側だけど、最近は予約に対するバックや、ちょっとした出演料や、それがなくても刺激的な場と時間と共にご飯などいただいたり、共演者の素晴らしい表現を間近にしている。もともと売るつもりのなかった、400ページの鈍器のような詩歌写真集も一冊を残して全部売れた。とてもうれしいことだ。つまり、人に必要とされたり、僕のような鈍感な人間でもわかるように明確な形に変換していただくとうれしいし、まだ生きられる気がしてくる。

 自分が手を出した表現で、全くお金にならなかったことがほぼないということにけっこう救われている気もする。(最近気になってデビューしたダンスとパフォーマンス・アートは、さてどうなるだろう?)。無償でパフォーマンスする時ももちろんあるけど、自分でお金を払いながら勝手に参加するのと、オファーされるのは全然違う話だ。それに、違う世界から興味を持たれることが多いのは、自分の異常なまでに複雑な多面性を、別にそれはそれでいいと認められているような気がしてありがたい。

 とはいえ最近はオーバーワークなのかもしれない。人に必要とされること、そのために頑張ることは素晴らしいけど、自分の限界を見誤り続けるのはいいことではない。だから、「ちょっとブレーキも必要かな」という意図もあってこの文章を書いている。とはいえ今のところオファーや誘いは全部うれしくて、あとは自分の方で、自分のコンディションやスケジュールに合わせてきちんと返事をイエス、ノーでわける責任を持とうということがきっと大事だ。

 先日は初めて「ダンサーオンリーのダンスイベント」で踊ってきた。(特に踊り終えた後に)すごく緊張したけど、この異邦人を誘ってくれたり、歓迎してくれた人もいた。来月末には「パフォーマンス・アート」という表現形式で初めてのパフォーマンスをする。30〜40分の長丁場のパフォーマンスになる予定だ。場所は小さなギャラリー。一般的なトス・ジャグリングができる場所では到底ない(小さな場だし、作品破損の可能性があるので)。完全に新しい挑戦だ。でも僕には合っている機会だと思うので、なんとなくいい感じになる気がする。12月には、まだ未定だけど即興表現でかなり大きなイベントに出るかもしれない。3歩歩いたらものを忘れる鳥頭の極みで人生すごい困っているのだけど、その分だけ覚えなくていい即興表現というフィールドは本質的にやすらぐところがある。

 こうなるといよいよ何でも屋みたいな感じだけど、僕は「頭のよさも文才も、才能も表現力もたいしてない。周りにすごい人が多すぎて自分には何もない」というセルフイメージから表現がスタートしている傾向がある。だから「器用貧乏な自分」みたいなコンプレックスがあまりない。何回転生したのかわからないような目まぐるしい人生があって、それに耐えるためになんとかいろんな表現手段に縋り続けて、たまたま生きている。それは前向きに捉えていいことだと思う。それにいろんなことに手を出したとしても、生活自体はスローに生きているし、人生もあと何十年と(たぶん)残っている。それは僕からすればずいぶん長い時間だ。いろんなことをやっても別にいいかなと自然に思える。どっちかといえば文芸や身体表現含め(どちらも目の体力が大事だ)いろんな表現に手を出しているのに、この歳で重度のドライアイが持病の一つになっていることが懸念だったり残念だったりする。

 歌は好きなのに、ものすごい音痴だった。でも一人カラオケが一般的になってからかなりの頻度で通ったら、「もともとの凄まじい音痴を思えば、ずいぶん頑張ったな」と思える程度には歌えるようになった。技術だけが全てではないという価値観と触れることも多くなった。あるいは自分の能力や特性や欠点を知っていくたびに、無駄に自分に失望することも(たぶん)少なくなった。人生は厳しいものなので、失望してしまう機会や可能性自体は増えたり変わってないかもしれないけど、まあそれはみんなたぶん同じだ。楽な人生なんて恐らく一つもないと思う。

 今度のパフォーマンス・アートの作品では観客との関係性をどうパフォーマンス中に紡ぐかを考えたり、あとは「パフォーマンスの芯の一つとして」人前で一人で歌を歌う(予定)もある。無口の大会があったら県大会くらい行けるんじゃないか?と思い出す子どもの頃を思うと、自分が朗読や歌を人前でしていたり、するだろうことが奇跡に思える。

 一つ白状すると、もっと若かった時に比べて、世界で好きなもの、楽しいと思うものがずいぶん少なくなった。でもたぶんそれは感性が(願わくば一時的に)衰えてしまっただけだと思う。僕一人のために世界の価値が変わることなんてあり得ない、そう思いたい。でも、まだうまくいろんなことを信じる事が難しくて、奇跡を奇跡とありのままに感じることが難しいのだと思う。でも、人生において、重要なことはほとんどスローペースな積み重ねの結果や、奇跡を奇跡と認識する能力を取り戻す静かな過程ではないか。その過程を、つまりはほんとうの奇跡と呼ぶのかもしれない。頭で考えた奇跡ではなく、長い諦念の上に積み重ねられた石の数という、肉体的な奇跡。

 まだまだ時間はかかるだろうけど、そういうものになっていきたいと思う。

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