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どうも古着が好きらしいのだけれど、

 古着について書いてみようと思った。古着を久しぶりにたくさん買ったから。

 エッセイを書いてみるといいのではないかと思ってnoteをはじめたのだが、なにせ慣れていないので書き方や執筆のきっかけに迷っている節がある。ただ、詩や短歌を書く(詠む)時は、自分が思いもよらないことが出てくるから書いているのだと思っているので、そちらは書き方に慣れている。なのでエッセイもテーマだけ決まったら、あとは書きたいように書けばそれでいいのかもしれないと思った。

 好きなものやことを言語化して伝えるのが苦手だ。一人で過ごすこと(もしくは飼い猫たちと過ごすこと)に慣れていた幼少期を送っていたので、そのあたりの能力があまり鍛えられなかったのだと思う。自分個人が好きだと思うその行為をしている時、それに触れている時、言葉は特に必要ではない。なので、改めていま戸惑っている。自分は古着のなにが好きなのだろう?あるいは古着を買うことのなにが好きなのだろう?

 わりと慎ましやかな金銭感覚で生きているので、安いのはもちろんありがたいことだ。それに伴う素朴な流れのようなものは、好きだと思う。流れる川の水を見ているととても落ち着くし、地元で一生を終えるような生き方を全くしてこなかったので、古びながらも、色褪せながらも、色んな人をさすらっていく服たちにはどことなく共感を覚える。最近ぼくが利用した店もとんでもない安さで曖昧に経営しているタイプの店なので、並んだ服たちも赤子のような新品というよりも、ぼくのように歳月を経た肌感を感じさせる。

 昔も服が好きだった時代があったのだけど、一度だけ出家のように手元のものをほとんど処分してしまったことがあった。僅かに倉庫に預けた気もするが、服も、携帯電話も、家具も全部処分して、しばらく中途半端にパックパッカーの真似事をしていた。そのように一度手元のものをすっかり処分し、流浪した経験がある。そういう経験が、巡り巡って古着に好感を持たせるのかもしれない。人は生きている限り、人であれ、ものであれ、最低限の共感からやはり逃げられないし、時によっては逃げる必要もないのかもしれない。

 古着屋にはたまに「〜工務店」だとか、または「(任意の苗字)」と刺繍が記された学校のジャージがある。やはり「田中」とか「中田」とか、わりと見慣れた苗字のことが多いはずだ(珍しい苗字の古着を見かけた記憶がない)。それでも、着崩れた感じや、雑に吊られたあの感じとはまた違い、こちらの方はより直接的に、言語的に人生を感じさせてくる。そういうものをあえて買うことは特にないけれど、見かけると不思議な気分になるものだった。成人済みである大抵のぼくらは、いつか自分の苗字が記された青だか緑だかのジャージを着ていたのだ。球技は破滅的だけど短距離走だけは好きだったぼくも、ぼくが大嫌いだった長距離走が大好きだったあなたも。

 古着についてやたら人生を感じさせる面を語ってしまったが、やはり気軽に新しい服を買って、色を変えたり、素材を変えたりして日々の気分を変えられるのは気持ちのいいことだと思う。特に暖かくなってきた時期なので、冬の間ずっと、機能的で軽くて暖かいダウンジャケットを着ていた封印から解かれた気分が強い(ぼくはひどい肩こりを持っているので、冬に重い服を着るのが苦痛で避けている)。

 なにしろUNIQLOのウルトラライトダウンジャケットはペットボトルサイズで鞄に入るので、今年もすっかり相棒になってしまった。効率や利便性とは恐ろしいものだと改めて思う。肩こりに関しても、まだ日本人平均年齢からしたら若い方なので、冬に服を楽しむためにも気長になんとかほぐしていきたいなと思う。どうにもならず、人生はずいぶんと長いから。古着を語るとなにかと人生論になってしまうのはなんでなんだろうか。

 と、それなりの文章量になったので書き止めようと思う。ここまで読んでくださったあなたの苗字は、なんだったのだろうか。まだ、あのジャージは大切にしているのだろうか。そういったことに思いを巡らせながら。


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