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「罪の声」を発したのは私かもしれない

現在公開中の映画『罪の声』を観た。まだ観ていない人は、このnoteを閉じて今すぐに映画館の座席を押さえてほしい。今すぐに!!

製作決定の発表がされた段階で観に行くと決めていた本作。内容が興味あるジャンルだし、何より脚本を務めるのが野木亜希子さんであり、主演が小栗旬さんと星野源さんであるという理由だった。好きな脚本家と俳優のタッグは、この目に焼きつけるしかない!ということで、予告も宣伝もあまり観ないまま劇場に足を運んだ。

『罪の声』とは

小栗旬×星野源。人気と実力を併せ持つ今の日本エンタメ界を牽引する2人が映画初共演となるこの秋最大の注目作『罪の声』。原作は、2016年の「週刊文春」ミステリーベスト10で第1位を獲得するなど高い評価を得た塩田武士のベストセラー小説。フィクションでありながら、日本中を巻き込み震撼させ未解決のまま時効となった大事件をモチーフに綿密な取材と着想が織り交ぜられ、事件の真相と犯人像に迫るストーリーが“本当にそうだったのではないか”と思わせるリアリティに溢れ、大きな話題を呼んだ。(公式サイトより)


私が生まれる15年前の1984年に起こった「グリコ・森永事件」がモチーフということで、もちろん当時のことは記録でしか知らない。Wikipediaレベル。原作も読まないまま鑑賞した、ただの映画の感想。エンドロールが終わったときに文字に残さないといけないと直感したの。

ここから本題!

感想(キャスト編)

キャスティング天才。(大きな拍手)(スタオベ)
これが舞台であったなら、間違いなくスタオベしてた。映画館ってしていいの?したところでキャストに伝わらないけど。

小栗旬さんの演技はなんだかんだ久しぶりで、おそらく『BORDER 贖罪』(2017年)以来。3年も観てなかったか…?こういった硬派な作品もそれ以来だろうし、その新鮮味もあるとはいえ、たった一言、「え」の使い方があまりにも上手くて驚いた。もちろん以前からそれだけのお芝居ができる人で、こんな言い方だと上から目線に聞こえて嫌だけれど、本当にそう思った。目や眉毛、表情とかでも表現されているのに、小栗さんは口でお芝居をしていると思わせる。何度も出てくるのに、どれもが違う音だったの。何個持ってるの?っていう。無理やり文字に起こすなら、こんな風に違った。

・証言者の話を聞くなかで、分からない言葉を聞き返す「え?」
・驚き、戸惑ったときの「え、」
・シンプルに驚いただけの「え」
・ごまかすときの「え、、。?」


とにかく本作ではディティールを大切にしている印象が強い。最近は『銀魂』や『髑髏城の七人』のような個性的な主人公を演じられていたからこそ、この作品では「ただの新聞記者の阿久津」の素というか普通のリアクションという部分がより際立って見えたのかもしれない。小栗さんは戸惑いや慟哭のような演技がとても似合う人だから、それが散りばめられていて良かった。観たかったやつ………!


星野源さんに関しては、つい最近『MIU404』と『逃げるは恥だが役に立つ』(ちゃんと観ていなかった)を立て続けに視聴したばかりだったとはいえ、そのどちらとも違う役どころの演技が素晴らしく合っていた。

出演作すべてを観てはいないながらに、源さんは目でお芝居をする人だと思っていて、今回もここにすべての感情が見えた。自分の声が犯罪に使われた可能性があることを知った瞬間も、真相を知ろうとツテを辿って話を聞くときも、聡一郎の半生を知ったときも。言葉より先に、まぶたが震える。瞬きの仕方が変わるのではなくて、無難に言うと「瞳が揺れる」。

聡一郎「見えにくくなって、細かい作業ができなくなって、クビになりました。」俊也「…?病院には、?」
聡一郎「保険証、持ってないので。」
聡一郎「曽根さんは、、曽根さんはどんな人生でしたか?」
俊也「私は、………」

聡一郎の歩んだ人生と自分(曽根俊也)の人生とを比べたときの、曽根の胸中は計り知れない。何も知らずに生きてきたことは、悪いことではない。利用されたのだから。けれど、「同じなのに違う」人がいることを知ったとき、そうは思えない。

このシーンは秀逸だった。台詞があってないようなものだから。あれは源さんの目でなければ成立しない。言葉にならない頭の中を感じるには、あの目が必要だった。空っぽの目。ト書きとか演出とか、どうだったのか気になるなあ。

感想(内容編)

素直に受け取れば、「罪の声」を発したのは曽根俊也、生島望、生島聡一郎の3人だ。ギン萬事件に使われた、3人の子ども。
でも違う。この映画で描かれた「罪の声」は、大きく2つあった。

①マスコミと、それを鵜呑みにした世間
これは言わずもがな、古館寛治さん演じる鳥居や松重豊さん演じる水島も話したように、この事件が「劇場型犯罪」と化した責任は当然マスコミにある。脅迫状が届いたことをただ報じるばかりで、犯人の思う壺だった。阿久津の姉も、「同じくらいの年の子どもが所属しているなんて、怖かった。」というようなことを言っていた。脅迫音声が子どものものだったからといって、そこにその子どもたちの意思があるかのように思わせたのはマスコミだ。事実を淡々と伝えても、どう受け取られるかはわからない。この当時、そうした野次馬精神やスクープ第一主義があったという。これは今無いのか?と言われたら、否定しきれない部分はたくさんあるよね。新聞もあるだろうし、ワイドショーや週刊誌はこんなものばかり。


曲がりなりにも、私は新聞記者を目指している1人。就活をしていると、阿久津の悩みである「他人の人生に踏み込む」ことや「報道の意義」について、必ず問われる。無闇に押し入ってはならないけれど、世の中に伝えなくていいわけじゃない。革命運動を起こしたって、世間を巻き込んだ犯罪で権力の不手際を嘲笑ったって、事件報道をしたって、社会は変わらない。そうかもしれない。それでも、阿久津のように、「新聞記者の使命がそれならば、寄り添っていきたい」と思えた。

②犯人と、それを知っていた人
この場合は、「罪を吐露する声」かも。35年経ったから話した、証言者の人々。みんながみんな口をつぐみ、阿久津が通い詰めたり上手く誘導したりしない限り、「ギン萬事件」について知っていることを話すつもりがなかった。当時、この人たちに辿りついた人がいたならば、全員の運命は違ったかもしれない。誰もが誰かの人生を狂わせた。生島(父)はもちろん、達雄だよね。生島母子を逃したと思い込み、すべてが解決したかのようにイギリスで暮らしていた。阿久津の言うように1984年のままで、あまりにも重い罪。

何よりも、真由美だよ。いちばん悪いのは。「知らない方がいいこともある」と言いながら、証拠を残したのはなぜ?俊也に詰め寄られて、涙を流して自分の考えを伝えるだけ?正直に答えればそれでいいの?
子どもは親のものではない。親の道具ではない。その両方を裏切ったことを、35年経ってから隠そうとした。バレていたから謝るなんて、あまりにも子どもを舐めている。


この映画には無駄なシーンがひとつとして無い。物語の展開の仕方は、野木さんと土井さんらしさ(『アンナチュラル』コンビ)を感じる部分もあった。ひとつ手がかりを見つけて、一歩深いところに行ったときの「これだ!」感というか、そういう引き込むところ。

「素因数分解するのが(記者の)仕事」と言った鳥居の台詞が、すごくしっくり来た。あれが原作にあるのか、映画オリジナルなのかは知らないけど、この物語の本質だった。社会部デスクの言葉ではなく、この作品のナビゲーターであったようにすら思える。阿久津や曽根が手がかりを見つけるごとに主要な人物が増えていって、誰が誰だかついていけない観客もいたかもしれない。でも、その人もあの人も、みんなが「ギン萬事件」を紐解くのに必要な因数だと思わせる台詞だった。

誰もが「罪の声」の主になるスイッチを持つ

この映画を観て、私が誰かにとって大きな傷となる言葉をまったく発していないとは言えないと感じた。こんな大事件になっていなくとも、小さな事件にすらなっていなくとも、自分がそんな言葉を口にしたと気づいていなくとも、「罪の声」の主である可能性はある。野木さんの言葉を借りるならば、すべてのことはスイッチだから。自分の「正義」を貫いたことで、知らず知らずのうちに誰かに傷をつくってはいないか。私はあまりにも胸が苦しくなった。


このインタビューで、野木さんが「フィクションの名を借りて他人に踏み込みすぎているし、一種の暴力にもなりうるんじゃないかと思う」と話されている。それはつまり、もしそうなってしまっていたとしたら、野木さんが書いた脚本が「罪の声」になるということだ。そのリスクを背負いながら、原作を踏襲して書きあげたことに、本当に感謝したい。私は、こんなにも心に残る作品に出会えたのだから。


最後に余談。私は源さんと同じ誕生日であり同じ血液型だ。誕生日占いも血液型占いも、干支占いも信じていないけれど、2つも一緒ということで謎の親近感がある。父に言ったら、父の誕生日にはイモトアヤコさんがいるから、いい勝負になりそうだとの返事がきた。

おわり。


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