見出し画像

正しく生きたいだけなの


ときどき、人間ってどうして生まれたのかな?って思うときない?
私は姉とこの話をすることが何となく多くて、死んだ後にその結論が出せるものだと感じてる。私が生まれた意味なんて、一生私には分からない。

最近のSNSでは、多くの人がさまざまなトピックについて積極的に(思慮されていないものももちろんある)投稿し、意見はすれ違い、論点はずれていき、モヤモヤとイライラだけが蓄積されているように感じる。

海外に目を向けてみれば、対話するよりも声を荒げ、先に手が出ているような状況で暴動的なデモが加速している。

どうして?怖い。こわいよ。

こんなことをするために生まれたの?誰に何を認めてもらいたいの?どうしてそのために暴力を用いるの?
ますます私のなかに疑問が渦巻いてゆく。


落ち着いて考えて、論理的にエレメンツに基づいて考えて、冷静に伝えようよ。
偏った意見を見るたびに辟易し、いつも私はこう思う。

特に近頃思うのは、自由や権利に関する認識のズレが何よりも原因なのではないかということ。

個人の自由だ、と言えば何でも許されると思っている人が少なくないのだと思う。

「自由」にはfreedomとlibertyの2つの意味があって、守るべきは節度を持った上でのことだと解釈している。


だけど、結局みんな自分が一番大事で、自分は傷つきたくなくて、ついでに自分と親しい人にも傷ついてほしくなくて。自分から少しでも離れたところにいる人になら何を言っても何をしても問題ないと思ってる。何とも思わないんだ。

応援している著名人に対しても「育ての親」のような気持ちが生まれる前に、リクエストと意見の押し付け、ダメ出しと批判の違いを理解していないといけない。自分でも気がつかないうちにアンチに変わっていく。

愚痴垢や批判リプ垢をつくるから心は廃れ、視野は狭まり、知性を失うのに。
嫌いな人を貶めるために監視しているのかなあ?

嫌ならミュートなりブロックなりしろよって話なんだけど、こっちが全部それするのもまた心が疲弊する。
Twitterなら避けやすいけど、Instagramって避けにくい。ストーリーで言う人って多い気がしていて、本当に謎。みんなに言わなくて良くない?っていう。


「受け入れてほしいけど、どうせ受け入れてもらえない」という気持ちが見え隠れしているような気がする。詰まるところ、人間は寂しくて1人では生きられなくて、そのために自分の存在価値を築こうともがいているんだろうなあ。

そういう本能的なものをそれぞれの正義感とか価値観で咀嚼して、正しいと思う方向に生きているんだけど、それがズレているから永遠に亀裂がなくなることはないって話。だとしても暴力に走る人間には絶対にならない。


豊かに健やかに楽しく!
私はいつだって「ハッピーライフ!ハッピーホーム!」の心持ちでいたい。
まっすぐ正しく生きているんだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?