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推しとか、希望とか

元のつぶやきが探せなくて大変恐縮なのだけども、ついこの前、「推しは探すものじゃなくて、ある日突然それこそ交通事故のごとくぶつかるものだ」というお話を拝見した。ちょっと物騒な喩えではあるけれども、これには同意しかない。探そうと思って見つかるものではなく、なんなら仕事学業家庭のあれこれで大変とか、余裕もないから今お金の支出先は増やせないからちょっとそういうのは避けておきたいとか、そういうときに限って、予想外のところからやってくる。「自分がいくら気をつけていようとも、回避しきれないこともある」という意味で、あまりにぴったりなのだ。
もちろん、いろんなコンテンツに触れる機会が増えるということは、そのうちの一つが推しになることだって十分にあり得るので、機会があれば見聞きしてみるというのは良い手段だろう。と思うんだけど、探そう見つけようと思って見つかるものでもない。そして、自分の推しを好きになってくれる人がいたらそりゃ嬉しいけど、人それぞれに好みはあるから、そうなるとも限らない。これは、勧める側としても、勧められる側としても、そういうものだと思っておかねばならないことだなぁと思っている。

希望っていうものも多分そうで、こういうものが希望ですって誰かが言ったとて、それが同じように自分の希望になるとは限らない。誰かにとってどれほど素晴らしい事象だろうとも、同じようにああなるほどそうだねと思えなかったら、結局それは希望たり得ない。だから少なくとも私自身は、希望を誰かに押し付けることも、または提示を求めることも筋違いなこととして扱っている。そこにある事実の中から自分で見つけるしかなく、事実を提示してあとは受け取り手に委ねるしかない。

昨日、大好きなBUMP OF CHICKENのライヴに行って来た。2023年のツアー"be there"の最終日だった。
それこそ本当に予想外に、彼らの音楽にどかんと惚れ込んでしまったのが7年前。そして、父を亡くしたり、大きな病気をしたりしたのがその翌年だ。普段決して敬虔な信徒でもなんでもない私だけれども、もしかしたら、この先いろんな大変なことが山盛りだから、お前なんか前向きになれるようなもの持っておけよ、と出会わせてくれたのかもしれないなぁと、勝手に思ったりしている。神様仏様ありがとう。

BUMP OF CHICKENのライヴには何度か伺って、昨日改めて思ったのは、私は、彼らの音楽には、自分の中にあるともしびを見つける手助けをしてもらっているということだ。
これがまたちょっと弱めの灯だもんで、私はしょっちゅう見失う。なんか自分だけ上手くいかない気がするとか、頑張っているつもりで、実は全然ダメな気がするとか。ともしびはちゃんとそこにあるんだけど、ああだめだーって俯いたり、拗ねて膝を抱えたりしているうちに分からなくなってしまう。
そういう時に、わかるぜ、と届けてもらった音楽を聴いて、その音楽を聴いたいろんな人の、ああおんなじだという言葉を聴いて、そうか、自分だけじゃないんだなと分かる。そうしているうちに、みんなそれぞれの場所で頑張っていて、まだ自分もやれるかなっていうことを思い出す。あるじゃん、真っ暗じゃないじゃん、って、自分の中にある灯を思い出す。その、自分で見つけた、思い出せたということが、確かなものになって、もう少し頑張ろうと思える。

ライブの時間は本当に楽しくて幸せで、その約束があるということは、私にとっての、毎日を歩く上での大きな希望だ(とはいえ、そういう期待がご本人達の重荷にならないといいのだが)。
それを一つ通り過ぎて、寂しいけれど、そこから遠ざかることは、また少しずつでも前に進んでいる証拠でもある。それもまた一つの希望なのだと思う。
そういう風に思えるようになったことが、とてもとても嬉しい。

BUMP OF CHICKENの皆さん、スタッフ関係者の皆さん、ツアー完走お疲れ様でした。幸せな時間をありがとうございました。
もらった記憶と受け取った音楽を燃料に、また毎日を頑張ります。

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