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「そのまま読む」ということ

場合によってはちょっとお叱りをいただくかもしれないぞ、と思いつつ、個人的にはちょっと頭の痛い出来事だなと思ったので書き出しておこうと思う。

現在うちの子は年中さんである。
まだあやふやなところもあるが、読みにくいフォントでない限り、ゆっくりならひらがな文は自分で読むことができる。本人は絵本が大好きで、保育園でも良く読み聞かせをしてもらっているようだし、家でも図書館で借りたりなんやかんや買ってきたりして眺めている。本を読む習慣がつくことはいいことなので、これからカタカナで漢字と少しずつ覚えて、自分でどんどこ読めるようになったらいいなと思っているところだ。
これが前置き。

少し前のことだ。
随分前にハッピーセット(お世話になってます)のおまけについてきた絵本を開いて、保育園の先生の読み聞かせの真似をしていたのだが、聞こえてくる話がどうも前にその本を一緒に読んだ時の中身と違う。だので、私はそこで子供に一旦ストップをかけた。
なんで止めたのかというと、「書かれていることと違うことを、さもその本に書いてあるように読む」ことをしていたからだ。

もちろん例えば、ここに書いてある絵からどんなことが想像できますか?という、物語を自由に作ることを楽しむための本だとしたら、それはそういう目的の本なので、絵を見ながらどんなお話なのかを考えてみるのは自由である。
が、この時の本はそういうものでなく、そこに明確にこれこれこうですよというお話が書かれているものだったので、ちょっとお待ち、と止めに入ることにした。そして、「文字の書かれている本に勝手に物語をつける読み方はちょっと違うこと」「君はまず、本に書いてあるお話を書いてある通りに読めるようになることを先にしてほしい」という旨の話をした。
だって、その本に文字が書かれていると言うことは、書いた人が何かしら伝えたい意図があって、本という形にしているのだ。
そこにある物語を書き換えてしまったら、つまり、「お昼ご飯はハンバーガーが食べたいと言ったのに、同じ牛肉だからこれでもいいに違いないという謎変換で、牛丼を買って来られた」みたいな話だと思うのだ。ちょっと例えが雑かもしんないけど、いやじゃん。いやなんで牛丼なんハンバーガー言うたやんてなるじゃん。

そこでちょっと関係あるかなぁと思うのが、昨今、子供たちの教育について、子供たちの持つ想像/創造力を伸ばしましょうという話だ。そこについてはなんの異論もなくて、自由に考えてみたり表現してみたり、ルールやモラルの範囲内で、そうしていいことは自分のやりたいように、好きなようにしたらいいと思う。
一方、「言われたことを言われた通りにやる」「書いてあることを書いてある通りに読んで理解する」という能力も非常に大事で、それこそ大人になってからすることのほとんどは、どっちかというと、「言われた/書かれた通りにする」必要があることがほとんどなんじゃないかと思う。
この、「言われた/書かれた通りにする」というのは、イマイチネガティヴに響くことがあるように思っているのだけど、多分それは、「言われたことだけやる」という状態の話であると思っていて、それと「言われた/書かれた通りにする」は別の話だ。
たとえば、身近なところでいえば料理だってそうで、製菓なんてちょっと勝手に分量変えると思う通りのものができないし、組み立て家具なんかも、書いてある手順の通りに作らなかったら出来上がらず、組み立てたところで、高さと幅はこれだけありますと書いてあるのに、納まる場所がなかったら設置できないでしょ。
さらに言えば、「要件の通りに成果物を返す」が仕事としてパーフェクトなケースも多い。プラスワンのアドバイスなりアレンジなりができたらもっといいこともあるにはあるけど、誰もそんなことを言っていないのに、「自分はこうに違いないと思っている」だけで突っ走ると、大抵の場合は失敗する。
だから、自由な創造性を伸ばすことも、誰かの意図指示をなるべく正確に受け取ることもどっちも重要で、それを鍛えることをまぜこぜにしないように、うまいこと考えないとならないなぁと思っているところである。

ちなみに、この記事を書きながら、今思い返してみれば、子供のその「お話」は、先生の読み聞かせの真似をしているのであり、ごっこ遊びの一部だと考えたら、そこまで「それは違うよ」と言わなくてもよかったような気がしないでもない。でも、読んでいるつもりで読めていなくて、創作する癖がついちゃっているのだとしたら、あんまりいいことではない。「そこにある誰かが書いた本」に対してはね。
ただ、「お話を創作する」というのは、当然これも別で楽しんでいいことなので、何か別の形で、一緒にできる機会があったらいいなと思う。

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