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小さな小さな

 数年前の話である。

 駅に向かう私の前を歩く女性がいた。彼女はベビーカーを押しながらゆっくりと歩いている。
 私も特に急ぐわけでもなく、彼女を抜かすために歩く速度をあげるのも面倒なので、だらだらと後をついていった。

 季節は春だったように思う。雨上がりの澄んだ空気と、ぬるい風が気持ちよかったことを覚えている。

 濡れて黒々と光る地面も美しい。アスファルトに押し花でもされたかのようにはりついている葉を目で追っていると、リズムやメロディが脳内に聴こえてきそうだった。

 その曲に耳をすませていると、ふいにノイズが混じった。

 白と水色にカラーリングされた小さな靴が、道に落ちていた。

 私は何も考えないまま立ち止まった。
 道を歩いている最中、急に立ち止まるなど危険だ。後ろに人がいたら迷惑をかける。急いで後ろを振り向くと誰もいない。安心した。
 いや、安心している場合ではない。そもそも私が急いで確認するべきは前方であることに気が付いた。

 十メートルほど前をいくベビーカーから、小さな足がぷらぷらとゆれているのが見えた。裸足だった。

 私は靴を拾い上げ、走った。

「すみません、これ、落としませんでしたか?」

 どうやら間違いではなかったようで、母親から感謝された。他人から感謝されるのが苦手な私は、「いえいえ、では」とだけ告げて、足早に駅へ向かった。

 感謝されるのは苦手だが、嫌いではないのだろう。なにせ、数年たった今でも、その時のことを覚えている。
 その日にあった出来事は、それしか覚えていないし、その時期に自分がどんな生活を送っていたか、どんなものが好きだったのかもさっぱり覚えていない。
 でも、あの小さな靴を届けることができた記憶だけは、ふとした拍子になんども記憶の表層に浮き上がってくるのだ。
 私は、その程度の記憶を後生大事に取っておくような小さな人間なのだ。
 

 


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