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30年目の中国をラトビアで感じる

10月の初旬にエストニアから陸路でラトビアに入った私は、ようやく予定していたラトビアの取材の日程を終えることができた。
1日1軒とはいえ、その間にバスや列車でラトビアの全土を飛び回ったので、レンタカーで移動するよりもかなり時間と体力を使った。毎日別の人と初めましての出会いは自分の性分に合う仕事とは言え、こんな私でもかなり負担になる。ここ最近は取材の旅で1ヶ月ほど続くと、だれも会わないような場所に数日引きこもることをしている。引きこもる目的はその時々で違うが、整理できなかったことを頭で整理して執筆することもあれば、レンタカーがあればドライブして好きな場所を探すこともあるし、ひたすら寝ることもある。

昨日から誰も探せないようなラトビアの田舎で、束の間の心と身体の休息をすることにした。車でバス停まで宿の人に迎えに来てもらって、乾いた土の道路をひた走り宿に向かう。今日はシーズンオフのため私しか宿泊する人はいないらしい。
車は宿の前に止まり、車高が高めのバンから飛び降りるとそこには「キン」と冷えた空気が身体に入る。

「ああ、これだよね」
過ごす場所を間違えていないことを澄んだ空気で確認した。

時は1日さかのぼり、最後の取材日にラトビアの西部の街ベンツピルスの郊外に訪問した。その家主の女性はラトビアの首都リガにあるラトビア大学で中国語、中国文学、チベット語、チベット仏教を教えている教授だった。聞くとラトビアでは唯一の専門家だという。
そこから会話は英語と中国語を交え、インタビューを続けていく。ラトビアでラトビア人の流暢な中国語を耳にする機会があると思わなかった。
1993年に初めてラトビア大学に中国語のレッスンが始まってからずっと学習を続けドイツに8年博士号を取得のために留学したということだった。
優しい方だから「すごく上手な中国語ね」とありがたいことに褒めてくれて「いやいや、錆びついちゃって」と私は返事をするのがやっとだった。

思えば、場所は違えど私も1994年から日本で中国語を学んでいた。大学では中国が好きすぎて中国の映画ばかり図書館で観ていたし、講義が終わっても自主練で中国語を学習する集まりに参加していた。大学に在学していた間の1年間は北京にも留学させてもらった。
あの頃の中国は首都北京といえども、毎日が日本の50年以上前の生活レベルだった。世界で流行っていたヒット曲も発売から2年後にしか手に入れることができなかった。しかも手に入れられてもカセットテープだった。ジーンズ履いていたら当時の中国人の服装と明らかに違うので、日本人だとバレて「小日本!(※中国人が日本を馬鹿にする時に言われる小さな国土をイジる表現) 」と怒鳴られたことも珍しくない時代だった。
中国のそういう部分を楽しんでいた若い私もいたし、その全部を深く知りたいと持っていた。2000年となり、私も大学を卒業する時期に差し掛かった。中国に対する情熱は続き、夢は中国語圏で仕事をすることだった。紆余曲折あったが2008年には香港に駐在させてもらえることになった。たくさん仕事もしたけども、それ以上に現地の生活も謳歌していた。
その後も私はさらに紆余曲折するが、使えるものは中国語くらいしかなかったからか、台湾企業の日本支社の仕事に従事した。そして2019年コロナが始まる半年ほど前に辞めた。

その後はバルト三国と縁ができ、完全に中国や中国語と関わりのない仕事をしている。ラトビアでラトビア人が話す美しい中国語、そして専門をずっと貫き通すという人生にもに触れ、自分の中国に関わる記憶が走馬灯のように脳内を駆け巡っていった。

なんのご縁かラトビアで中国を貫くプロにお会いして、ラトビアでの最後の取材は過去の自分と対峙する機会を期せずして得られることとなった。
中国語を勉強し始めたあの頃の30年後にまさか、ラトビアにいると思っていなかった。

中国語とは別だが、楽しむことを見つけ、これからの人生でやりたいことだらけで、おそらく死ぬまでにすべてをやり切ることができないかもしれないと思う。
中国に触れて30年目に中国語と紆余曲折をした私が今ラトビアの片田舎にいることを感謝したい。

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バルトの森
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