ど緊張の初打席の翌週、またも代打で出場機会が与えられた。デビューの緊張感に比べたらほとんどカタさもとれ、今回はヒットを打ってやろうという気持ちを持つくらいの余裕の気持ちで打席に入った。そして簡単に初球に手を出してしまい、平凡なフライが打ち上がった。正直打ち損じた感じだった。ところが、である。その打球はセカンドとセンターの間にポトリと落ちて、記録はヒットとなった。前回のヒット性の当たりがアウトに、今回の平凡なフライがヒットになるのだから野球は深い。ただ、自慢するような打撃ではな
1学年上の先輩たちは粒揃いだったため、自分らの代で練習試合に出たものはカズキひとりだった。ショウヘイはデビュー前にケガで離脱していたし、新チーム結成時に選抜された、マナブもヨウジも出番はまだなかった。 そんなところへショウヘイの代役でベンチ入りした私がカズキに続くふたりめの一年生デビューのチャンスがやってきた。小学校3年生のときに、たった3ヶ月の野球経験しかない私には、もちろん人生初めての試合出場である。父親や兄もギャラリーに混じって見守ってくれていた。 忘れもしないN中学と
セカンド。強烈に憧れたポジションである。なんといっても推しとも言っていいドカベンの殿馬が守っていたポジションだ。殿馬というのは作中でとんでもなく守備が巧い選手だった。だからセカンドは、名手が守るポジションというイメージを持っていた。そんなところへ学童野球をろくにやっていない私がノックに入るのだから、とにかく地に足がついていない状況だった。 加えてシートノックの特性も私を緊張させた。シートノックというのは流れが大事だからだ。何度も何度もポロポロしていたら流れが止まる。ノックの打
6月の大会を最後に引退し、受験勉強に移った3年生を送り出すイベントとして、夏休みの最後に新チーム対3年生のOB戦が組まれるのが、我がJ中の慣例だった。 ブルペンキャッチャーという切り口からメンバー入りを目指した私は残念ながらこの試合のベンチには入れず、二塁塁審を務めながら試合展開を追った。試合は髪の伸びた3年生は和気あいあいと、新チームの2年生は真剣に試合に臨んでいた。そして、同期の有望株であるショウヘイが試合途中からセカンドに入ったことが私の運命を変えることになる。 ショウ
夏休みの練習は厳しいものがあった。お盆以外休みのない日程に、酷暑。それまで毎年母の実家でのんべんだらりと夏休みを過ごしていた私にとっては初めての経験であった。それに加えて監督の恐怖感が半端なかった。たるんだプレーが出ると即全員が集められて説教である。説教ならまだマシで、怒りにまかせてバッティングマシンを蹴っ飛ばし、練習なんか辞めて帰れ!と言われるのがお約束である。まずは言われるままマシンを片付けて、帰る準備をするのだが、最後にキャプテンが謝罪にいって結局練習が再開する流れにな
1年生だけの練習といってもキャッチボールと素振りをするくらいのものだったと思う。その素振りをしている時だ。ある年配の方が私の方を見ながら監督に話しかけているのが見えた。そしてすぐに監督に呼ばれた私は、そこでもう一回スイングしてみろと指示を受ける。 「ほら、すごくキレイなスイングじゃない?」と年配者が言うと、「君は右投げ左打ちか?」と私に尋ねてきたので、頷いた。 その年配者は監督に「この子は貴重な存在だから今から育てるべきじゃないか?そうだ、お尻も大きいのでキャッチャーはどうか
夏の大会が終わり、1学期末試験休みを終えた後、2年生が最上級生となる新チームが誕生した。2年生は全部で14人。監督の方針なのか最上級生は全員ベンチに入ることが規定路線で、当時のベンチ入り18枠に対して残り4枠を1年生が争う。しかしその初日いきなり監督が発表した。「マナブ、カズキ、ショウヘイ、ヨウジの4人は今日から練習に入れ。ノックはマナブがファースト、ヨウジがセカンド、カズキがサード、ショウヘイがショートに入れ。」と。言わずもがな全員が“経験者”であった。 いきなりの衝撃であ
「部活何に決めた?」家についたなりの私にすでに大学を卒業し、隣町の学校で教員となっていた兄が問う。私は咄嗟に「サッカー部」と答えた。家族が総出で「えっ?」ってなった。意外な反響に驚いて「ウソウソ、野球部」って本当のことを答えた。家族も私の部活選びは気になっていたようだった。 野球部に入ったものの、最初は全員横一線だった。キャッチボールもさせてもらえず、ただ先輩の練習をベンチ前で見ているだけだった。監督ともロクに話すことはしない。練習試合になればスコアボード係などの裏方にまわり
1990年4月、地元のJ中学校に入学した私は運命的な再会を果たす。同じクラスにマナブがいた。そう、私に野球を伝授してくれた先生であり、Kクラブのエースを務めたあのマナブだ。 マナブと私は誕生日が5日違いなので、生まれ順で並ぶ小学校1年生の時は座席が前後だったのだが、名列順で並ぶ中学校でも座席が前後になった。ふたりは同じイニシャルなので、名列順も近かったのだ。それにより4年のブランクを経て私たちはすぐにあの頃の親友関係に戻った。そしてマナブから部活何に入るのかと質問を受けた。聞
中日ドラゴンズの優勝を体験し、プロ野球への興味が一旦落ち着いた1989年、私は小学校の最上級生となり、あらゆる活動に駆り出されていた。 まずは地元の大きな祭りに鼓笛隊として参加させられた。担任からのオファーで最初は断ったが、この祭りに出ることは名誉なことらしく、母がどうしても受けろということで、聖闘士星矢の超合金と引き換えに出ることにした。 次に地元の小学生を集めたローカルテレビでのクイズ番組に出された。ポップコーンとかいう芸人が司会で学校対抗のクイズ番組だった。5人チームで
少し話は戻るが、小学校5年生の時、私のクラスに転校生がやってきた。みるからに都会から来た感じの、勉強もスポーツも万能な美女だった。名前はクミコという。私はこういう王道系の美少女は好みではなかったが、訊けば名古屋から引っ越してきたドラゴンズファンだという。学校1の竜党を自負していた私に思いもよらないライバルが現れたのだった。 私は中日ドラゴンズの知識や現状分析をもって、クミコに戦いを挑んだが、ほとんど返す刀でやられてしまった。クミコからすれば、越してきた町にこんな熱狂的なドラゴ
さて、ソフトボールの準優勝に沸き、ほぼ我が町内チームの貸し切りと化した食堂で、ある人物が私に声をかけてきた。ソフトボールチームの監督を務めた男性だ。その男性はカワムラといい、その日の私のプレーをひとしきりベタ褒めしたあげく、Kクラブに入らないかとスカウトしてきた。Kクラブ。そう、それは私が3年生のときに退団した学童野球チームである。 カワムラはKクラブのコーチをしており、彼の息子もKクラブの6年生で、この町内ソフトボールにも出場していた。カワムラは私に退団歴があることは知らな
ソフトボール大会はベンチスタートだった。何試合したのかは記憶にないが、チームは順調に勝ち進み、なんと決勝に駒を進めた。その決勝戦で私は実戦デビューを果たすことになる。 ワンアウト1塁の場面、代打で登場した私は、フラフラとした打球をセンターの方へ打ち上げた。センターとセカンドがお見合いをして打球がグラウンドに跳ねた。ヒットだ!1塁ベースに向かいながら、人生初打席初ヒットだ、と心の中でほくそ笑んだ。ところが、である。センターが捕ると思ったのか1塁ランナーがスタートを切っておらず、
さて、小学校5年生になった私は精力的にドラゴンズの応援と水島漫画むさぼり読みは継続していた。 自分の野球といえばゴムボールをカラーバットで打つ子ども同士の遊びに興じながらも、暇があれば自宅前のスペースで木製バットのスイングと軟式ボールの壁当てを自主的にやっていた。いつかまた野球をやろうとか思ったわけではなく、バットを振ったりボールを投げたりしながら、「打ちました!」「投げました!」とひとり実況で妄想しながらひとりで遊ぶのが好きだったからだ。 また、成人した兄にはバッティングセ
中日ドラゴンズにハマる一方で、水島新司さんの漫画作品にものめり込んでいった。まわりの友達がコロコロコミックを読み始めているかたわらで、私は兄の所持する漫画を読むことが増えていった。その中にキラリと光る漫画があった。水島新司さんの「球道くん」である。元プロ野球選手の父親を病気でなくした山本球道が、父が亡くなった病院にたまたま入院していた社会人野球選手・中西大介(のちにプロ入り)と、大介が想いを寄せる看護婦の愛子に引き取られ、中西球道としての野球人生を、幼少の頃から描くヒューマン
学校一のドラゴンズファンの称号を手にした以上、その責務を果たさねばならなかった。やるべきことはふたつ。常にドラゴンズの動向に注視し情報を仕入れておくことと、ドラゴンズファンを増やすことである。 今のようにインターネットのない時代。日テレ系の中継もない私の町で見れるのは、ナゴヤ球場の中日vs巨人戦の13試合である。これでは圧倒的に情報が足りない。なんとかしなければならなかった。そこで母に頼み、月刊ドラゴンズの定期購読にこぎつけた。金沢遠征でやってきた中日vs阪神の試合は父に頼み