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きょう見つけた本「ヘルシンキ 生活の練習」(2024/09/07)

こんばんは。土曜日ですね。
きょうもお疲れ様です。

まれに書店を練り歩くといい出会いがありますね。
読んでない本を紹介するのは変な話ですが、
私自身に、何(どこ)が刺さったのかを考えると面白いのではないか…と
勢いだけで書き始めてみます。マーケティング的にいえば、AIDMAの認識と関心の言語化、出版社からの情報が私にどうささったのかの言語化かもしれません。
それゆえに本の内容と乖離することもあるかもしれませんが、紹介文を私がどう受け止めたのかを記録してみようと思います。

ヘルシンキ 生活の練習

リンクはアフィリエイトのやつです…。

北欧への警戒心(why)

フィンランド、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー…。
これらの国々が登場するとき、結構防御姿勢に入ってしまう。おそらくそれが理由でこの本が目に留まった。

北欧に対して身構えてしまう理由はシンプルで、みなが賛美するからだ。やれ教育がいい、やれおしゃれ、やれやれ…
かくいう私もデンマークのデザインや北欧の配色には憧れというか、
直接見に行きたい願望はあるが、私の認識では北欧は生易しい国でない、という印象だ。

どちらかというと、実力主義、超個人主義、徹底的なリアリストの印象が強い。個としてどう生きるかを常に模索している人々…というニュアンス。個の発露が自由なのかもしれないが、責任のうえに成り立つ自由、という印象で、手放しにいい国!と感じられない気がしていた。

これらはあくまで印象論だが、おそらくこのイメージは世界史で学んだ知識から来ている。北欧諸国の争い、ロシア・フィンランド戦争、ナチスとの闘い等等…書いていてもっと知りたくなった。特にデザインが引き算になっている理由とか…(シンプルに落ち着いたのはなぜ?)

スキルとしての「生活の練習」?(what)

この本の帯を見ると、どうやら北欧・フィンランドで暮らす際に出会う数々のことを「生活の練習」と言っているらしい。著者のバックグラウンドは社会学者らしいが、生活に溶け込む際に必要な知恵・能力を得るまで/得たプロセスを練習といっているのであろうか。例としては、友達の定義が紹介されていた。

「友達だから一緒に遊べるのではなくて、一緒に遊ぶ人を(そのとき、その場で)友達と呼ぶ」。個人の性格や性質と考えられがちなものを、社会を生き抜くためのスキルと割り切るドライな発想。「これらのスキルはすべて、一歳から死ぬまで練習できることですよ」という保育園の先生の言葉。

もしこぴさん(読者) - Amazonより

このような話を聞いて感じたのが、私自身は「自分の文化ではこうする」という認識を持つところ(メタ認知)から、相手の文化ではこうするのか…と気づきを得る流れをイメージするが、この著者は「練習」と記している。ここが非常に気になる。

しかし、練習という言葉からは繰り返しのニュアンスが感じられる。ここには現地に溶け込むまでの試行錯誤があるのだろう。相手の文化ではこうするのか…と思っても、細かいニュアンスや背景はつかめない。ただどうするのか、というスキル的(処世術?)が身につくだけだろう。まずスキルとしての生活のスタイルを少しずつ確実に我が物としていく、次に対象の行動の裏にある文化的なものを感じ取っていく…、もっというとその行動を選んだ個人の強い想いも垣間見えるかもしれない。練習という言葉には、きっとこんな意図が込められているのではと感じた。

プラスのノート(how I)

私への引き寄せ。ちょうど私自身は合気道に関心を持ち(唐突だが)、10月から始めてみたいと考えている。

合気道に関する書籍を読んだ際、プラスの氣とマイナスの氣に関する記述があった。引き寄せの法則に近いのかもしれないが、ポジティブ思考はポジティブを呼ぶ、に近い。

気持ちとしてポジティブであると、身体は心と一体であるから身体もうまく動く。心が動かないと体もその通りに動かないことを、心身一如というそう(もちろんもっと深い意味があるがかなり簡略化した)だが、私自身も自分の行動を改めてメタ認知し、新しい行動様式に照らして考えてみる、行動からさらに自分の心の動きをとらえる…と面白いのかもしれない。

その書籍では、うまくいったことをプラスのノートに記録するとよいらしい。生活の練習とは程遠いが、新たな文化的なコードに慣れ親しみ、それを冷静に観察するのはどうか、タイトルまわりからそんな示唆をいただいた。

紙版のみの発行みたいだ。また書店に行ったら今度は買おう。


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