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スーパー銭湯の話

気がつけば30代半ばになり、また私事ではあるが、先日体調を崩して入院したので、健康への感度が上がっている。そんな30代男性である。同居人はいるが、独身である。

健康はビックワードであるけれども、今回はなぜ体調が悪くなるのか、そこに対してどうアプローチするのかを考えた。その結果、私なりにスーパー銭湯をいくつか訪れてみた訳だが、思ったことがある。

これに関しては完全な独り言だし、独りよがりでもある。
結論から言えば「目的も見失うな」の一言なので、なぜこれに行き着いたのかの観点で書いてみたい。

私自身が不調に喘ぐとき

私は体の変化に鈍感らしい。体が出すサインを掴めないようだ。体が出すサインとは、例えば日中あまりにも思考が途切れパフォーマンスが悪い、体が鉛のように思い、変な息切れが続く、寝てても目が覚めてしまうなどがある。

私の場合はうえにあげたものに加えて、1週間ほど夜に目が覚めてしまい、その後冷や汗をかき嘔吐が続いた。それでも何とかなるだろうと正常性バイアスが働き、無視した結果入院に至った。

改めて考えてみると、不調のサインは2種類ある。
体に出てしまう場合、心に出ている場合だ。
体のほうは単純だ。しかし、風邪などの「いつもの」と区別してどの程度やばいのか、休むべきかは判断が難しい。ここはもっと自分をモニタリングすべきだと感じた。

心の方はもっと難しい。なぜなら、変数が多いからだ。
無限に分解できそうな気もするが、周囲の状況、メンタル的な周期、その日の機嫌、モチベーション、仕事で感じるプレッシャーなどなどある。つまり、心はいつも揺れ動いていて、平常がわからない。

ここまでの話をまとめると、なんとなく不調を感じているが不調の要因は捉えきれていないこと、そもそも普段の状態を理解していないことがわかった。

スーパー銭湯を選び、求めたもの

そんな状況でスーパー銭湯を選んだのは、シンプルに今時間を潰せて、翌日楽になることを求めているからだ。

前者は私の予定管理が下手なだけなので、これはまた別の問題だが、後者は私自身が「風呂に入れば良くなる」「サウナは健康によい」と無批判に信じているからかもしれない。翌日の心身が楽になるだろうと思い込んでいることがある。

これは、実際に肉体的疲労に対して風呂で回復を感じたことや、ドイツやオーストリアで湯治の良さを聞いたり、またスーパー銭湯自体が湯治の効果の根拠を海外から引いていることがあるかもしれない。
つまり、何となくお風呂がよいと信じている自分がいた。

加えて、スーパー銭湯は手頃だ。都内であれば1,000円から3,000円程度と値段はピンキリだが、少し足を伸ばせば設備が整っているし、長いを許してくれる場所であるからだ(そうでない場所もあるが)。つまり、行動を阻害する要因が少ない。

でも、最近気づいたのがスーパー銭湯で、私自身は何も癒やされていないのではないか、ということだった。原因はテレビと知らない人たちの雑談を聞いてしまう(聞こえてきてしまうこと)だった。

スーパー銭湯では癒されない

気づいたとき、つくづく自分のことをめんどくさいと思った。スーパー銭湯を選んでいた理由は、開放的な場所で自分の思考の時間がほしかったのではないか。どういうことか。

開放的な場所とは、露天風呂や緑の多い場所、精神的にリラックスを感じられる場所のことだと思う。自分の思考の時間が取れる、とは、落ち着いて人に邪魔されず(注意が散漫にならず)自分自身のことを考えられることだ。もしくは自分の頭の中の独り言との対話に没頭できることかもしれない。

大半のスーパー銭湯には、テレビがある。それも結構真ん中に。それも周囲の雑談に耐えうる結構な音量がある。また、改めてスーパー銭湯のお客様を見ていると、テレビを観る方もいれば仕事について語らう人、俺論を展開する人、恋愛話に花を咲かせる人など多様である。それが聞こえてしまっている。

そこで気づいたのだが、私自身が一人で利用することが多かったから、一人でリラックスできる場所としての機能にばかり目が向いていた。このリラックスできる場所、という言葉への理解が甘かった。

スーパー銭湯の客は多様だ。一人で来てテレビを延々と見ている人もいる。それは惰性の人もいれば、日常からの解放(それこそ近所付き合い、家庭?)的な意味合いもあるのかもしれない。
集団で来る人もいる。「裸の付き合い」的なコミュニティ形成(強化)の機能もあるのだろう。例えば高校生たちの集団は部活の仲間で来ている姿が見られたが、部活という現場を離れて、現場というシリアスな場面から切り離した、少し緊張感の緩んだ別の場面で関係を構築しているとも言えそうだ(ここは絶対的に言語化が足りていない部分)。田舎のスーパー銭湯では、政治的な機能も発生する(ここはちょっと今回の文脈からズレるから省略する)。

長くなったが、彼らが求めているのは日常のシーンからの解放であって、自分の日頃の役割からの解放を意味しているのではないかと思うようになった。

すると、私がスーパー銭湯に求めていたのは、ただただ思考に浸れること(時間からの解放、思考の制約からの解放?)であるかもしれず、スーパー銭湯が場所として提供する価値と自分が求めるものとは少し隔たりがある気がしてきた。これが、私がフルにリラックスできず消化不良で帰ってくる要因かもしれない。


私に必要なもの

ここまで書いていて、自分が至極めんどくさいやつだいうことがわかった。しかし、求めていることも分かってきた。より深くそう感じる理由を考えてみたいところだが、いま必要なのは手段だ。

そもそもスーパー銭湯にいくきっかけとしての肉体的な疲労に関しては、いまとさほど変わらずジムでいいのだろう。ジムで有酸素運動やいわゆる筋トレで大きな筋肉を鍛えれば代謝のいい身体なりになっていいのかもしれない。あとはよく寝るための投資をした方が遥かによさそうだ。

一方で思考面の解放は何がいいのだろうか。ぱっと思いつくのはトレイルラン(疲れるから歩きそう)、ヨガだが、何がいいのだろうか。もしくは個室サウナはこのニーズを満たしてくれるのか…

心の安寧を求めるのに、なぜこんなに悩んでいるのだろうか。そんな自分への向き合い方をスーパー銭湯のテレビが教えてくれた。

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