遠藤周作とメタフィジカルなドラマ

21世紀のぼくらは、「メタフィジカル」などという言葉には縁がない。「メタフィジカル」とは、辞書を引けば「形而上的な、形而上の」という意味だという。では「形而上」とはなにかといえば、「精神や本体など、形がなく通常の事物や現象のような感覚的経験を超えたもの」とある。ここでいう「本体」とは、「移り変わる現象の根底にある不変の実体」とか「超自然的な永遠恒常者」といった意味の哲学用語のことである。

いっときブームになり、今では一部に地位を得ている「スピリチュアル」と呼ばれる分野からすれば、メタフィジックスとは魂や霊の世界の話である。一方、長い歴史を誇るにもかかわらずこの国では中々花開くことのないキリスト教の視点からすれば、メタフィジックスとはこの世界の背後に──あるいは真上に──あるいはその只中に──おられる主なる神の世界の話にほかならない。

1955年、遠藤周作は服部達や村松剛らとともに〈メタフィジック批評〉を提唱した。「白い人」で芥川賞を受賞する直前のことである。どのような思いで〈メタフィジック批評〉を打ち出したのか、遠藤は当時のことを回想し佐藤泰正に対して次のように語っている。

じつは戦争直後、民主革命ということによって人間がすべて解放されるというような、非常な明るさとオプティミズムがありまして、当時私は大学生でしたけど、「ほんとかなあ」という気持がありました。人間の底には民主革命や社会革命では解決できない悪みたいなものがあって、それがそう簡単に片づくかということは、当然キリスト教信者なら思いました。 実際向こう[フランス]へ行ってみると、われわれが大学で習ったフランスのレジスタンスという、正義とかヒューマニズムというもののなかに、目に見えない悪というものが存在していたということを現場で知りました。(中略)そういう気持をもっていましたんで、メタフィジックと気負って言い出したのは私だとおもいます。私はメタフィジックといえばキリスト教だというのが念頭にありましたが、服部さんと村松さんのばあいは「アンチ近代批評」という感じではなかったでしょうか。(『人生の同伴者』121–22頁)

彼は他の場所で、〈メタフィジック批評〉に参加した理由のひとつは「作家の人生をその作品価値との関係で考察する批評」すなわち「その作家の人生における芸術的体験や影響を考慮する批評方法」を提唱するためでもあったと言っている(「芸術の基準」)。芸術家は「超絶的なもの」を欲して「自由や祈りや意志」を造型することで作品を創るのであり、遠藤はそれを考慮した「芸術の基準」を提唱した。彼は作家が「自由や祈りや意志」を向けるその「超絶的なもの」を「上部構造」と呼ぶ。そして「芸術は上部構造の反映そのものではないが、上部構造を手がかりとして表現されるものなのである」という。この「上部構造」こそメタフィジックスである。遠藤は、芸術はメタフィジカルな視点から芸術を論じられるべきとの思いを持っていた。そして遠藤本人にとっては「メタフィジックといえばキリスト教だ」と言っていた通り、この「超絶的なもの」あるいは「上部構造」とはキリスト教的神にほかならなかった。

その後、遠藤は批評よりも小説の世界そのものにおける追求を深めていくことになる。彼の小説においても〈メタフィジック批評〉の精神は衰えていない。いやむしろ、彼は〈メタフィジック批評〉で考えたことを小説という舞台で実践していった。

兼子盾夫は、遠藤文学を次のように理解する。「物語の展開の裏にもう一つの世界があり、そこに彼の真のメッセージが隠されている。具体的には作品中に散りばめられた象徴や隠喩(暗喩)を解読すると、表面的な物語の奥に形而上的(魂の次元の)世界が浮かび上がるのだ。」(『遠藤周作による象徴と隠喩と否定の道』7頁)そこから進めて、ぼくは思う。遠藤周作の小説世界とは、根源的にはフィジカルなドラマとメタフィジカルなドラマとの交差なのであると。

多くの遠藤論は、小説のフィジカルなドラマの分析とその背後に見える作者の思想や形而上学については論じていても、ドラマとしてのメタフィジックスにまで目が向けられていることは少ない。兼子をはじめとしてそこに切り込んでいる者もいるが、まだ少数である。

遠藤文学が往来の私小説的世界と根本的に異なっているのは、一見私小説的方法をとっているように見える作品(たとえば『スキャンダル』)でも、そこにはメタフィジカルなドラマがあり、そのドラマが私小説的なフィジカルなドラマに交わってくるところである。フィジックスにメタフィジックスが飛び込んでくる。それを表しているのが「白い人」における銀色の十字架の幻であり、「月光のドミナ」で千曲に聞こえる声であり、『わたしが・棄てた・女』でミツや吉岡に聞こえる声であり、九官鳥や犬の「眼」であり……やがてこれらは『沈黙』でロドリゴに体感されるイエスの顔や声へと昇華されていく。そして『死海のほとり』では遂に、フィジックスとメタフィジックスの交差点であるイエスの十字架そのものが描かれる。言うまでもなく、ここで彼が明確に描いた「人生の同伴者」こそが、『侍』を通って『深い河』に至るまで彼の作中世界におけるフィジックスに交わってくるメタフィジカルな存在である。

「物語の裏にもう一つの世界があり、そこに彼の真のメッセージが隠されている」という考え方やそれを実践するために象徴などを頻繁に用いる手法は、兼子が指摘するようにドストエフスキーのような巨匠や、遠藤が愛読したモーリヤックやグリーンといったカトリック作家も用いたよくある手法であった。遠藤はこの手法こそ自らの信仰と合致する表現手法であると考え、これを日本文学の土壌において実践することを選んだのだ。だが現代日本文学を読むと、このメタフィジカルな世界は再び脇に追いやられてしまっている気がする。一見メタフィジカルな内容を扱っているように見える作品であっても、それは結局作中人物が直接経験するフィジカルな事象に陥ってしまう。

しかし「目に見える世界がすべて」という発想から相対主義にまで至ってしまったこの21世紀の世界において、フィジカルな事象だけを追い求めていく文学にはどれほどの価値があるのだろう。結局ぼくらは各々がその事象を相対的に受け取るしかないのであろうか。それはひどく虚しいことのように思えてならないのだ……。それならぼくらは今再び、目に見える世界の背後をも「視る」メタフィジカルな文学にも関心を戻し始めねばならないのではないか。

そこにおいては、カトリック者遠藤の例を見ればわかるように、クリスチャンが持つポテンシャルは凄まじい。クリスチャンというのはメタフィジックスがフィジックスに交わってきた歴史的事象(キリストの受肉と受難と復活)を土台にして、自分の人生においてもメタフィジカルな世界が交差しているのだという世界観に立って現実を生きる者である。この世界観にリアリティを持って生きているクリスチャンであれば、メタフィジカルな文学に取り組むためのポテンシャルはいかほどであろうか。ぼくらは今再び、そのことを意識し始めなければならないのではないか。