遠藤周作のイエス研究

ぼくはいわゆる「福音派」──つまりすごくプロテスタントのすごく伝統的・保守的なグループに属するクリスチャンだ。でもこの「福音派」に行き着く前は、カトリックも通ってみたし、保守的な信仰に批判的なプロテスタントのグループも通った。その時期には遠藤周作の説くキリスト教に心を奪われていた。彼の『死海のほとり』という小説、また『イエスの生涯』『キリストの誕生』といった評伝は、今はそこに書かれてある思想に同意することはないけれど、今に至るまでの歩みを思い起こすためにとても大切な本たちだ。

何年か前から再び遠藤文学とがっぷり四つに取り組もうと細々とした勉強を続けていて、とうとう『死海のほとり』や『イエスの生涯』にも取り組もうという気になってきた。あまりに思い出深い本たちだけど、まずは遠藤周作自身がどんな勉強の遍歴を辿ったのかをはっきりさせようと思い、彼が『イエスの生涯』を取り組む際に書いていた「日記」(遠藤周作文学全集15巻所収)を開いて、ノートを取ってみた。以下は読んでもらうためのエッセイというより、ぼく自身がノートを取りながら考えたことをそのまま書き連ねてみたものである。

遠藤周作は、伝統的な聖書理解を現代人の視点から否定するプロテスタントの批判的な聖書学者に比べて、カトリック神学者の著作を「無味乾燥」と評した。そのとき、どのような気持が彼のなかにあったのだろう。現代人に信じられぬ内容を未だに素直に信じていることから来るのか。だがW・バークレーはともかく、K・H・シェルクレやA・フェイエの研究などは、未読だが調べた限りある程度歴史的批評的方法に基づいているようである。とすると、教義学的な行き方への批判心なのか。

そもそも彼は、プロテスタント神学者の著作のどこに惹かれたのか。2月23日の日記では、シェルクレの著作に触れた後「カトリックの神学者が聖書について語る時、何と無味乾燥になるか。その点、プロテスタントの神学者のほうは聖書を生き生きとさせる」と書いている。プロテスタントの神学者は聖書を実存的に読む。遠藤はそこに惹かれたのだろう。なぜなら遠藤の聖書の読み方は、端から実存的だったからだ。彼は教会で教えられる保守的カトリシズムを信じられなかったから、端から自分に引きつけて実存的に読むしかなかったのである。そこに、同じく実存的に人間的に聖書を読むプロテスタント神学者の著作がやってきて、遠藤の読み方を刺激したのではないか。

だが、ボルンカムやシュタウファーの研究に触れた後の読後感について、彼は「神学者たちの人間の臭いのないキリスト分析」という言葉を書いている(1月23日)。彼が心惹かれた「聖書を生き生きとさせる」プロテスタント神学者の著作とは、どれのことを言っているのだろう。

現代聖書学の研究をする遠藤の心境。1月22日の日記にはこう記されている。「様式批評の神学者のことを考える時、私は自分の手足を食う章魚のことを連想する。彼等は自分たちの学問的追求が最も崇高だったものを卑俗化し、最も超自然的だったものを日常的なものにし、最も劇的だったものを屑のような台本にしてしまうのだ。私はある日、椎名麟三氏がブルトマンを評して「講釈師、見てきたような嘘を言い」と怒っておられた姿を思いだす。小説家としてこういう神学者の本を読む時、私は彼等がこれらの本を書き終って自分の裡の最も大切だった部分を失い、空虚感にぼんやりしている姿を想像してしまう。」

太字部は『死海のほとり』の登場人物・戸田の造形の元になっているのだろう。遠藤は、プロテスタント神学者たちの持つ実存的聖書解釈に惹かれつつ、しかし彼等が何を信じていたのかということについては「空虚感」を抱かざるを得なかった。だが彼自身は、こういった聖書批評学に触れる前から、奇跡をそのまま信じられる気にはならなかったものの、「苦難の僕イエス」「同伴者イエス」「身代りに苦しむイエス」という概念は持っていたし、年々その概念を膨らませていた。(「月光のドミナ」や『沈黙』に見られる、我とイエスとの〈苦難の連帯感〉を思いだせ。)そして彼は、既に持っていたそういうイエス像まで排除して客観的に聖書を読んだのではなく、むしろそれを中心に据えた上での実存的聖書研究をプロテスタント神学者たちの著作によって深めたのである。だから彼は、『死海のほとり』の内容がブルトマンの「非神話化」の受肉化であるという批判に激しく反発したのだろう。

してみると、遠藤はプロテスタント聖書学者たちの著作によって聖書の読み方を変えられたのではない。むしろ彼自身が従来より持っていた聖書の読み方を肯定されたからこそ、彼等の著作に惹かれていったのではないか。

だが、20世紀後半以降の保守的研究を知るぼくら21世紀の福音主義者は、遠藤が好んだプロテスタント神学者たちの研究もまた個人の持つ「信仰」という前提に縛られていることを知っている。「学問的」というレベルでは、マタイの福音書は使徒マタイが書いたという結論も、マタイ共同体の無名の構成員が書いたという結論も、同程度なのだということを知っている。つまり、従来の保守的伝統的見解もまた「学問的」に支持され得ることを知っている。

保守的見解であれ批評的見解であれ、どのような見解も等しく「信仰」という前提に縛られている。それをふまえると、福音書が伝統的見解のように目撃者証言集であること、すなわちイエスの生涯は福音書に書かれてあった通りであることも「学問的」見解として成立し得るのだ。

だがぼくらは実存的に聖書を読むことを全否定することはできないだろう。ぼくらは「聖書自体が何を語っているか」を前提にして、やはり「ぼくらはそこから何を教わるか」を抜きにしては考えられないからだ。福音派のぼくらにとっても、聖書において神を実存的に知ることは重要なのだ。ただし、まずテキストの歴史的文化的言語的背景をふまえて「聖書自体が何を語っているか」をよくよく見極めねばならない──保守的な福音派の信仰が本当にぼくらの心に息衝いていなければ、ぼくらは福音派による『イエスの生涯』に取り組むことはできないし、福音派による文学に取り組むことはできないのだ。