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私はいかにして自衛官になったのか


24年近く勤めた自衛隊を一昨年の11月に退職し、民間企業に勤めてすでに1年以上が経過しています。

転職と言うのは私の人生にとって大きな変化でした。
何とか1年を乗り切り、転職して2度目の正月を迎えました。
これを機に、改めて、自分を振り返って行きたいと思います。

そもそも私はなぜ自衛隊に入ったのか、と言うことについて綴って行こうと思います。
長くなりますが、子ども時代も振り返って、私がどう言う人間だったのかも合わせて振り返って行きたいと思います。

私は子どもの頃から、割といわゆる「サブカル」好きな男子でした。

「自衛隊」で想像されるような「体育会系」で「マッチョ」な思考の持ち主ではありませんでした。むしろその逆でした。

集団で行動するよりも、一人を好む傾向があったと思います。その一方で、趣味の合う友人とずっと語り合ったりすることもとても好きでした。

私は名古屋出身です。名古屋と言えば、プロ野球の中日ドラゴンズのホームです。で、私の周りは父や兄も含め、中日ドラゴンズが好きな人ばかり(今思えばそうじゃ無かったのかもしれませんが、当時はそう思っていた)でしたので、中日ドラゴンズの話しになると困惑する、と言うことがたまにありました。中日ドラゴンズ以前にそもそもプロ野球に興味が無かったのです。今よりもはるかに娯楽が少ない80年代、男子小学生でプロ野球に興味が無いなんて、かなり珍しい存在だったのでは無いでしょうか。しかも私は小学生の頃、野球部に入っていたのです😅

プロ野球よりも読書の方が好きで、江戸川乱歩の小学生向けの作品などを読んでいました。
小学生の頃は読書感想文なども得意で、コンクールなどに入選したこともあります。

中学生の頃にはラジオにハマるようになりました。特にニッポン放送の「オールナイトニッポン」が大好きでした。
デーモン小暮、大槻ケンヂ、電気グルーヴの番組にハマっていました。彼らのトークが、今の私の思考の傾向にも相当影響を与えていると思います。
オールナイトニッポンは2部制で、確か1部は深夜1時から3時、2部は3時から5時。そんな時間まで起きてラジオを聴いているもんだから、朝も起きられず、学校はほぼ毎日遅刻していました😅 授業中もかなりの割合で居眠りしているような中学生でした。

また、中学生の同級生数人と、小説をそれぞれ一冊のノートに書いて行き、回し読みして、それぞれ評価し合うと言うこともやっていました。

大学生時代は、雑誌を読むのが大好きでした。
よく読んでいたのは、
SPA!
月刊カドカワ
宝島
週刊プレイボーイ
週刊プロレス
格闘技通信
…などなど。

サブカル系と、プロレス・格闘技系の雑誌を中心に読んでいました。
漠然とですが、大学卒業後は雑誌編集者になりたいと思っていました。雑誌編集者になれなくても、マスコミに進みたいと考えていました。

先ほどから長々と何が言いたいかと言うと、私がいかに、世間でイメージされる「自衛官」と乖離した存在であるか、「自衛隊」と言う職業を選ばなさそうなパーソナリティの持ち主であるか、と言うことです。
自衛隊には何ひとつ興味が無かったのです。

もちろん、自衛隊にも様々な人がおり、世間で想像されるような「体育会系」一辺倒の人ばかりと言うわけではありません。
しかし、傾向としては「体育会系」の気質が強いでしょうし、私は自衛隊においては比較的異質な存在だったのでは、と思っています。

実際、私は大学4年時の就職活動において、内定をいただきましたが、それは自衛隊とは全く関係ない、営業職でした。内定をいただいたのは「大阪有線放送社」と言う会社です。現在の「USEN- NEXT HOLDINGS」です。ものすごい大きな企業に成長しているので、もしあの時入社していたら…と考えてしまうことがあります。

しかし、私はその内定を辞退して、1年の就職浪人ののちに陸上自衛隊に入隊するのです。
ちなみに当時(大学4年時)は西暦1996年、平成8年、時代は就職氷河期真っ只中です。
同級生の中には内定すら取れなかった人もいました。にも関わらずせっかくいただいた内定を自ら辞退したのです。世の中の厳しさを全く理解していない甘ちゃんでしたね。

辞退した理由なのですが、二つあります。今思えば愚かで浅はかと思える理由です。

①やたらとチャラい雰囲気に合わないと思った。

②街中で、寒空の下、営業活動をしてる社員を見て、自分には務まらないのでは無いかと思った。

理由の①について説明いたします。
入社前、内定が出た平成8年の暮れか平成9年のはじめ頃、研修と言う名の、食事会&カラオケのイベントがあり、そこで同期入社になる大学生たちと、どんちゃん騒ぎをした訳です。今はこう言うのあるかどうか知りませんが、当時はまだバブルの残り香のある90年代、新入社員に入社前、飲ませたり食わせたりは割と珍しくなかったと思います。
その時の、仕切っている先輩社員、これから入社する学生たちのノリが、軽薄を絵に描いたような感じだったんですよ。ホントに、びっくりするくらいチャラいんです。で、一応私も当時の大学生だったので、そこは空気を読んで合わせてチャラく振る舞っていたのですが、頭の中では、自分の性格ではこの人たちの中でやっていけないんじゃないか?と感じていたのです。
しかし、冷静になって考えると、これは非常に浅はかで短絡的な考えだったと思います。そりゃそうですよね。いくら飲み会やカラオケでどんだけチャラかったとしても、仕事は別に決まってるだろって話しなんですよね。
あとは、時代もあったと思います。当時の先輩社員はいわゆるバブル世代なので、チャラさが作法みたいに身についちゃっていたのかもしれません。

理由の②について
1997年(平成9年)の初頭だったと思います。とても寒かったのを覚えています。日中、名古屋の栄を歩いていた時、大阪有線放送社の社員が街中で営業活動をしているのを見たのです。
USENは今でこそ配信などがメインの会社ですが、当時はまだ有線放送が主体でした。その当時、店舗などには有線放送がけっこう普及していたので、会社としては次に各家庭に有線放送を普及させようとしていました。そのための営業活動を真冬の寒空の下、大阪有線の社員の皆様が凍えながらも笑顔で街ゆく人に一生懸命声をかけていました。
それを見た時、思ったのです。「やりたくないな」と。営業なんだからそれくらい当たり前だろって話しですが。(しかも、その後肉体的にはより過酷な自衛隊に入ることになると言う😅)

それにしても、就職氷河期真っ只中に、よくもまあ内定を辞退できたもんだと今は思います。でも、まだその時はマスコミへの思いを断ち切れてはいなかったのです。

結局、就職浪人の道を選び、1997年はほぼバイト生活になって行きます。
今思えば、このくらいの時に海外を放浪したりワーキングホリデーなどを経験していれば良かったのかな?と思うこともありますが、もちろん過去は変えられません。

そして転機が訪れました。その1997年のいつ頃だったかは忘れてしまいましたが、ただバイトだけして親のスネ齧って実家でタダ飯をずっと食べてる訳にも行かないので、マスコミへの想いはありつつも、とりあえず就職しようと企業展に行ったのです。
しかし、今はどうかわかりませんが、当時の企業のほとんどは、いわゆる第2新卒は、そもそも受け付けないところがほとんどでした。広い会場内にいくつもの企業がブースを出していましたが、興味のある企業にはことごとく「第2新卒」を理由に、話しさえしてもらえないと言う状況でした。
そんな中、「第2新卒」なんか全く関係ないところが一つ、企業展に出展していたのです。
それが、当時の防衛庁(現在の防衛省)でした。
実は私は大学生の頃は、走ったり筋トレしたりも趣味の一つにしており、それなりに体力には自信がありました。職務内容には興味無いけど、とりあえず自衛官受けてみようかな?嫌なら辞めればいいんだし、と言うくらい軽い気持ちで自衛隊を受験することにしました。
私が大卒だったので、担当してくれた広報官は私に、入隊後幹部になる任用区分「一般幹部候補生」と、陸曹になることが約束された任用区分「一般曹候補学生(略して曹学)」を勧め、私は言われるままその二つの試験を受け、「一般幹部候補生」は落っこち、「曹学」の方は合格しました。そして、私は陸上自衛官になることを決めました。
実際には、入隊までの数ヶ月いろいろなことがあったのですが(入隊までの間に、左目が網膜剥離になって手術をするなどして、自衛隊入隊の気持ちが揺らぐなどがあった)、結果として、1998年(平成10年)の3月25日に陸上自衛隊に入隊いたしました。

長くなりましたが、次回は私の陸上自衛官生活を振り返るとともに、なぜ中途での依願退職に至ったかについてお話ししたいと思います。

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