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現在に至るまでの大麻草



戦前までの大麻草

戦前まで大麻草は、栽培、所持、使用する法律は存在しておらず、農家は自由に大麻を栽培しいていました。
大麻草は成長が早く害虫にも強く、栽培の手間がかからないそう。
さらに大麻は胃腸や喘息の薬としても効果があることがわかり、医療用にも使われていたという。
1886年に日本国内における医薬品の規格基準書である「日本薬局方」には、「印度大麻草」「印度大麻エキス」「印度大麻チンキ」が収載されています。大麻は公的な医薬品だったようです。
日本国内に自生していたそれまでの「繊維型」の大麻とは異なり、海外から輸入されたものを「インド大麻」と呼び、花穂の葉の部分は主にぜんそく薬、鎮痛薬として用いられ、これらは「日本薬局方」に65年間にわたり収載されていました。

戦後の大麻草

第二次世界大戦後、日本ではドイツ医学からアメリカ医学へと方針転換があり、日本薬局方から「大麻」の文字が消えました。
1948年大麻取締法により医療使用が全面禁止になった3年後の事です。
なぜ、これだけの歴史を持つ大麻が禁止になったのでしょうか。
敗戦後の1945年日本はポツダム宣言を受託し、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に置かれ、GHQの司令により3年後の1948年に医療大麻と共に禁止となりました。
日本政府が独自に判断して禁止したのではないという事です。

しかし、日本人は戦前と同様、「マリファナはインド大麻の事で、日本の大麻は繊維型だから農作物としての大麻は無関係だ!と考えていました。そのため1946年春から夏にかけて例年どうり大麻の栽培は行われていました。
とろこが1946年に事件が起こります。
GHQの京都軍政部により、京都で栽培されていた大麻が発見され数名が検挙されてしまいます。インド大麻ではないことを証明しようとしましたが、努力は実らず、「その栽培の目的如何に関わらず、また麻薬含有の多少を問はず、その栽培を禁止し、種子を含めて本植物を絶滅せよ」との命令がくだされました。
しかしながら、日本は衣料の原料等に用いられており、この需要に応じるため大麻草の栽培再開が必要であったため、1947年に「繊維及び種子の採取及び研究目的の場合に限り大麻草の栽培を認める内容の大麻取締規則により、麻薬から独立して大麻の規制が行われるようになり、翌年の1948年法律第15号による改正により、大麻の定義が「大麻草及びその製品」と改められ、大麻草の種子は規制の対象外とされました。

農作物としての大麻

「植物を絶滅せよ」この状況を放置しておけば、衣料漁網など生活用品が生産できなくなります。そして数万人規模の農家の困窮が置きます。種子を放置すれば発芽率が低下し、大麻農業は破滅的な打撃を受ける危機があったようです。
こうした経緯があり政府がGHQへ栽培許可を要望し、全面禁止を回避し、農作物としての大麻を守ろうとしたのです。
そして一定の制約条件の下、栽培が許可されました。
制約とは、栽培許可面積の制約や、栽培許可県を限定されたものです。
その後、大麻の取り締まりを強化するため、取締規則を法制化するようGHQから要請があり、1948年に「大麻取締法」が制定。同時に「麻薬取締法」も制定。これは、農家が取り扱う従来の農作物としての大麻。医師などが取り扱う麻薬類を分けるための措置でした。


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