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いつだってそんなもの

  この時期になると、某所で二か月だけの短期アルバイトをした時のことを思い出す。

 仕事の内容は、施設利用者の受付と案内、端末操作の代行と言ったところで、採用された全員が三日ほどの研修で規則や端末の操作方法を覚えてから、現場に立つことになった。
 施設自体が古いせいか、エアコンがろくに効いておらず、研修中は震えるほど寒かった。

 一緒に働くことになった面々を見ると、私以外はみんな主婦か学生らしかった。中にはご近所同士顔見知りもいたようで、雰囲気は和気あいあいとしていた。休憩時間になれば、子どもが通っている学童保育の話だとか、新しく開店するスーパーの話だとかで盛り上がっているのがよく聞こえた。

 女性だけの、短期の仕事と言うこともあって、人間関係は悪くなかった。よくよく見ればあまり周りと交流をしない人もいたけれど、陰口や噂話を聞くこともなく、皆それなりの距離感で付き合っていて、私にとってはそれが何より助かった。

 それでも、失業して以来久しぶりの仕事に、私はガチガチに緊張していた。一通りのことは研修で頭に詰め込んだのだけれど、最初は相当やらかしてしまったりもした。教えてもらったことをすっかり忘れていたり、基本的な認識が間違っていたり。だけれど、周りの正規職員がその度にフォローしてくれたこともあって、私でも段々と仕事ができるようになって行った。
 毎朝のミーティングで「短期アルバイトの皆さん、ご協力ありがとうございます」と激励されることも、とても嬉しかった。ただの決まり文句なのだろうけれど、それでも、誰かの役に立っている実感が持てたのだ。

 そうして、私は少しずつ、「私でも必要としてもらえるのかもしれない」と、自信を取り戻して行った。

 利用者の中には機械に疎い高齢の人も多くて、端末の操作を代行すると、それだけで助かったと喜んでもらえるのも嬉しかった。うつ病の、無職の、何も持たない私が、ちゃんと社会の中で役目を与えられているような気がした。

 契約期間も終わりに近づいたある日、背の高い金髪の、ヨーロッパ系の見た目をした利用者が入り口に現れた。

「ご案内しましょうか?」

 案内係が話しかけると、彼は「お手上げ」の素振りをしながら首を横に振った。どうやら、日本語がまったくわからないらしい。その上運悪く、唯一英語対応できる職員は、その時ちょうど席を外したばかりだった。

「誰か、他に英語ができる方いませんか?」
 にっちもさっちもいかなくなり、案内係の職員は、短期アルバイトの私たちにもそう聞いてきた。しかし、私も含め誰も英語は話せないようで、皆顔を見合わせるばかり。
 その中で「あのー、私……」と、控えめに手を上げたのが、O川さんだった。

 O川さんは、私と同い年で、まだ小さい子どもを預けて働きに来ている人だった。短期アルバイトの中では若手で、見た目や服装も地味な人が多い中で、ほんの少しだけ垢ぬけている感じがした。私は何度か休憩が一緒になったことがあったけれど、程良く人懐っこくて、話しやすい女性だった。

 藁にもすがる勢いで「お願いします!」とバトンを渡されたO川さんは、入り口で立ち尽くしている利用者のところへ行くと、流暢な英語ですらすらと話しかけた。利用者は見るからにほっとした様子で、O川さんに言葉を返した。さっきまでは戸惑い、少しいらついているぐらいだったのに、話しているうちに笑顔すら見せるようになって、手続きが終わった時には、二人はお互い”Thank you!”と手を振って別れていた。

「O川さん、英語が話せるんですね」

 ちょうどその場に居合わせた私は、思わずそう声をかけた。するとO川さんは「少しだけ。ほんのちょっとです」と、誤魔化すように言うのだった。まるで、こんなところでひけらかすつもりはなかったのに、と言うように。

「いやいや、十分すごいよねー」

 O川さんが持ち場に戻った後、私の横に立っていたY中さんがそう言った。向こうのフロアでも、O川さんは職員に呼び止められ、助かったと何度もお礼を言われていた。それはおざなりな毎朝の「ありがとうございます」とは違って、本当に優秀な人が来てくれたことへの感謝に他ならなかった。

 中学レベルの英語すら覚束ない私は、どんなに真面目に仕事をしたって、あんなふうに感謝されることはない。

 なんだか、急に情けない気持ちになった。自分より優れた人を見ると、自分なんていなくてもいいような気がしてくる。私の思考にしみついた、嫌な癖だった。

 アルバイト最終日、必要書類の提出や貸与物品の返却も終わって帰ろうとすると、O川さんは正規の若手職員とLINEの交換をしているところだった。仕事中に喋っているところを見かけた記憶はないのだけれど、いつの間にか仲良くなっていたらしい。

「H谷さん、どうもお疲れ様でした」

 私は誰にも呼び止められることなく、それだけ言われて部屋を出た。たったそれだけのことなのに、この世の誰にも必要とされていないような気がしてしまうのは、なぜだろう。

 トゲのように刺さった小さな劣等感を抱えて、少し泣きそうな気分で家に帰った。

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