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ステレオタイプと、私たちの弱さと

 私たちは普通に生活しているだけでも、無意識に自分たちとは異なる人々に対して偏見を持ち、差別してしまう。それはあらかじめ脳に備わった認知システムが、自動的に偏見や差別を引き起こすように作用してしまうからなのだという。

 たとえば、私たちは日常生活のあらゆる場面で、さまざまな特徴を手がかりに、他者をあるカテゴリーに当てはめ、区別する処理を無意識のうちに行っている。
 目の前の存在が人間かそれ以外か、男か女か、大人か子どもか。
 乳幼児期からこうした処理を繰り返す中で、一つのカテゴリーに含まれるもの同士は類似性が強調され、別のカテゴリーに含まれる同士は違いが強調されるようになる。そのようにしてそれぞれのカテゴリーの境界は明瞭になり、AはよりAらしく、BはよりBらしく見えるようになっていくのだ。
 こういったシステムは、情報の処理を単純化して認知の負担を軽くするというメリットがある。もし、目の前の生き物が狼か人かを毎回ゆっくり考えなければならなかったとしたら、私たちは到底今まで生き延びてこれなかっただろう。
(参考:『偏見や差別はなぜ起こる?』(ちとせプレス))

 さらに人は、ある集団が何らかの特性と組み合わされて情報として入ってくると、「それが正しいとは限らなくても」それらの関係を知識構造に組み込みやすい。たとえば、精神疾患を持った人の一人が凶悪な犯罪を起こした時、他の百万人が善良な市民だったとしても、多くの人は「精神病者は犯罪者予備軍だ」と結び付けて考えるようになる、といったことがある。そうして、ある集団に付けられたラベル(精神疾患を持つ人)と、それに関連して呼び起こされる社会特性概念(犯罪行為に走りやすい)とが結びついた状態を、ステレオタイプという。

 精神病者の例は明らかに間違いだけれど、ステレオタイプもまた、人が生活をする上で役に立ってきたものだ。素早く判断をしたり、危険なものを察知するために。だから、私たちは生きている限り、ステレオタイプの影響から抜け出すことはできない。

 最近のSNSなんかを見ていると、ここ何年かでまた新たに形成されてきたステレオタイプも多いんじゃないだろうか。

 フェミニストは過激でおおげさだとか、反ワクチン派は頭が悪いだとか。だけど、そうしたステレオタイプを通して人を見るとき、私たちはどうしても、それぞれが一人の個人であることを忘れてしまっている。

 じゃあ、新興宗教の信者なんかについてはどうだろう。洗脳されきった、話の通じない人々と言うのが、よくあるステレオタイプじゃないだろうか。

 少し前、新型コロナ第一波の時の韓国の対応について、医療関係者たちが寄稿した本を読んだ。大邱でキリスト教系の新興宗教団体がクラスター感染を起こした頃の話だ。詳しいことは手元に本がないので、少しうろ覚えなのだけれど、こんな話があった。

 その寄稿者は地元の病院に勤める医師だった。大規模クラスターが起き、検査にやってきた人々の中に、小さな子供だった頃から病院に通っている青年がいたという。彼は、自分が感染しているのではないかと怯えきっていた。そうなるくらいなら、なぜ教会へ行ったのか。それが非科学的なカルト信者というものなのか?彼は震えてこう言ったそうだ。
「毎日不安で、独りでいることができなくて、思わず仲間がいる教会へ祈りに行ってしまいました」
 その言葉を聞いた寄稿者は、彼らがカルト宗教の信者である前に、一人のか弱い人間であることを思い出した、というようなことを書いていた。

 私たちはみんな弱くて、一人ではいられず、集団の中にアイデンティティを見出して安心しようとする。何を信じていいかわからず、わかりやすい言葉に思わず流されたりもする。それは人として当たり前のことで、そういう一人一人の人間が、カルト宗教の信者になったり、陰謀論者になったりもするのだ。

 対話は難しいのかもしれない。どうしたって理解できない人もいる。それでも、ステレオタイプはその人を語るものではないということを忘れないようにしたい。

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